唐泉山
唐泉山(とうせんざん)は佐賀県嬉野市にある標高409.7メートル(m)の山[注 1]。 概要嬉野市域の中部にあって、かつては塩田町と嬉野町の境界をなしていた。山の裾は南の多良岳火山の裾野へつながり、その鞍部には鳥越峠がある。八天神社が鎮座する神域・霊場の山[1][2][3]。 山頂部は古くから禁伐により保護されてきた椎の天然林で、佐賀県の天然記念物に指定されている[3][4]。 多良岳の北から北西の麓には鮮新世の先多良岳安山岩類が分布するが[5]、唐泉山も同様の変質安山岩からなる[1]。なお、同じ変質安山岩が分布する近隣の山では石材として加工に適した「塩田石」を産出していた[6]。 古いものでは慶長9年(1604年)の八天神社文書に「唐泉山」の記載がある。円錐形の山容は「肥前小富士」「藤津富士」とも呼ばれる。有明海を航行する船の目印にもされたという[1][2][3][7][8]。 八天神社・山岳信仰八天神社(はってんじんじゃ)は唐泉山に上宮・中宮・下宮を構える神社。祭神は迦具土神と大山祇神。上宮は山頂にあって磐座を祀り、唐泉山を神体とする。中宮は山の入り口の鳥越集落に、また下宮は山頂から見て南東約2キロメートル、中宮よりさらに下った麓の谷所集落にある。かつては「当船権現」「八天狗社」の呼び名があり、1873年(明治6年)に「唐泉神社」、後に「八天神社」に改められた[2][9][10][11]。 「八天神社文書」と総称される38点の古文書[注 2]が伝わっている。当初は山頂に神社、山麓に大高寺(大高能寺)という寺院を建立したという。『八天神社略記』などによれば、山城国から下向した修験行者で神社中興の祖とされる田村良真が神社を麓に遷座するとともに、大高寺を廃して宮司坊である本光坊を創建した。本光坊のほか朝日坊・本勝坊・円林坊・行学坊の5つの坊が設けられて八天五坊と称し、山域は修験道の場であったととともに、黒髪山や多良岳に近接した修験の一拠点であったと考えられる[2][9][10]。 下って戦国時代に入ると、近隣に有馬氏が拠点とした鳥付城があって戦火を被った。元和9年(1623年)に再建されると鍋島氏の庇護を受け、火伏せの神としての信仰を集め家内にお札を祀る「八天講」が肥前各地に広がった[2][9][10]。1877年(明治10年)に奉納された鹿島の町火消を描く絵馬は信仰と当時の町の様子を伝える[11]。 なお、神社由緒などによると白雉4年(653年)慧灌により創建されたと称する[12][13]。 中宮境内には元和2年(1616年)鹿島藩初代藩主鍋島忠茂が寄進した鳥居がある。3本継だがほぼ明神鳥居形式で、肥前鳥居から変化した初期の明神鳥居と考えられている[11]。また、下宮境内には「武徳」の額を掲げる三ツ鳥居がある。 下宮境内の石橋は、全長11.1 m、幅3.7 m、高さ4.7 mの一連の眼鏡橋で、嘉永5年(1852年)着工・嘉永7年完成の記録が残る。ほぼ原形を保つ江戸期の眼鏡橋としては佐賀県内で唯一残るもので、「石造眼鏡橋」として佐賀県指定の重要文化財となっている[2][10][14]。 下宮から上宮に至る古い道には33の丁石が立てられていたが、寛永二十年(1643年)の銘をもつ上宮境内の2本のみ現存する[11]。下宮も西に所在する山口権現には江戸末期に88体の石仏が建立され明治時代に散逸したが、1体の文殊菩薩騎獅像のみが八天神社に残されている[11]。 椎の天然林山頂部の約10ヘクタール(ha)にわたって椎の天然林が分布する。多くがスダジイで、ツブラジイも混生する。根回り3 m前後・樹高16 m前後の株が10 - 15 m間隔で密に繁茂していて、根回り6 mに達する株もある[4][15]。この森は1964年(昭和39年)5月23日に「唐泉山の椎の天然林」として佐賀県の天然記念物に指定されている。同じく山頂部の9.87 haの区域は国有林で、スダジイの保存を目的として1988年(昭和63年)3月31日林野庁の保護林に設定されている(保護林区分は希少個体群保護林)[4][15]。 天然林が残された背景には、神域・霊場のため当山は禁猟・禁伐の地となっていたことが挙げられる。一方で、戦火の影響を受けた元和5年(1619年)に全山が火災に遭ったほか、文政11年(1828年)8月の子年の大風の際は北側の一部を残してほぼ全体が倒れてしまったとの記録が残る[4][15]。 一方保護林の北側、旧塩田町側の中腹の杉や檜の人工林、常緑広葉樹が広がる地帯は佐賀県の生活環境保全林(面積26.6 ha)に選定され、林道やハイキングコース(歩道)、広場が整備されている[16]。 このほか山域には土砂流出防備保安林、佐賀県の鳥獣保護区が指定・設定されている[15][17]。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |