呼蘭若尸逐就単于呼蘭若尸逐就単于(こらんじゃくしちくしゅうぜんう、拼音:Hūlánruòshīzhújiùchányú, ? - 147年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。呼蘭若尸逐就単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は兜楼儲(とうろうちょ)という。 生涯漢安2年(143年)、兜楼儲は以前より漢の都洛陽にいたので、単于に立てられた。兜楼儲は漢の順帝より符節と璽綬を拝受し、青蓋の四頭引きの馬車・鼓車・安車・駙馬騎・玉具刀剣・什物・彩布2千匹を賜り、単于の閼氏(妃)以下にも金錦錯雑具・軿車(婦人用輕車)・馬2乗を賜った。朝廷は行中郎将を随行させて兜楼儲を南単于庭(南匈奴の首都)に帰らせた。11月、使匈奴中郎将の馬寔は刺客を使って句龍吾斯を殺し、翌年(144年)には南匈奴の反乱分子を一掃した。 建和元年(147年)、呼蘭若尸逐就単于兜楼儲は位にあること5年で薨去し、その後を居車児(伊陵尸逐就単于)が継いで立った。 参考資料
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