古川秀一
古川 秀一(ふるかわ しゅういち、1987年7月15日 - )は、長崎県佐世保市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 経歴プロ入り前清峰高校時代はエースとして2005年の第87回全国高校野球選手権大会に出場し、1回戦で十亀剣、柴田亮輔、堂上直倫擁する春のセンバツ覇者愛工大名電を下し、2回戦も福井優也擁する前年度選手権準優勝校・済美を下し旋風を巻き起こし(下剋上サウスポーと呼ばれた)3回戦に進出するも辻内崇伸、平田良介、中田翔擁する優勝候補筆頭の大阪桐蔭に1-4で敗れる。 卒業後は日本文理大学に進学し、野球部に入部。大学でも活躍し、2008年の第57回全日本大学野球選手権大会、2009年の第58回全日本大学野球選手権大会への出場に導いた。 2009年のドラフト会議でオリックス・バファローズに1巡目で指名。契約金1億円プラス出来高払い5000万円、年俸1500万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は14。 オリックス時代2010年には、オープン戦中のケガで、公式戦の開幕に出遅れた。しかし、5月30日に初めての一軍昇格を果たしてからは、シーズン終了までほぼ一軍に帯同。一軍公式戦では、ビハインドの展開を中心に、オール中継ぎで33試合に登板した。また、7月22日には、故郷の長崎県営野球場で催されたフレッシュオールスターゲームに、ウエスタン・リーグ選抜の一員として登板。1回を投げて3者連続三振を記録するとともに、優秀選手賞を受賞した。 2011年には、シーズン中盤に一軍へ昇格。一軍公式戦では、登板数こそ前年より少ない12試合にとどまったが、防御率1.69という好成績を収めた。なお、一軍・二軍とも、公式戦には全て中継ぎで登板した。シーズン終盤から参加したフェニックスリーグでは先発も務めた。 2012年には、一軍公式戦10試合に登板。しかし、7試合で失点を喫したほか、被打率.415、WHIP2.21という成績に終わった。8月21日の対北海道日本ハムファイターズ戦(旭川スタルヒン球場)では、先発の木佐貫洋が5回裏に6点を失ったことを受けて、この回の途中から登板。自身も6点を失った結果[1]、木佐貫と合わせて球団ワースト記録の1イニング11失点を喫したことから、翌22日に出場選手登録を抹消された。なお、ウエスタン・リーグ公式戦には先発でも登板。3勝4敗ながら、防御率は1.98であった。 2013年には、一軍公式戦3試合に登板。防御率3.38を記録したが、2回3分の2を投げるにとどまった。12月2日の契約交渉では、翌2014年の契約に対して、NPBの野球協約で定められた減俸の上限(年俸1億円未満の選手の場合には25%)を適用することを球団から提示。古川は、この提示を受諾したうえで、推定年俸1125万円で契約を更改した[2]。さらに、背番号を67に変更している。 2014年には、5月2日にシーズン初の出場選手登録。しかし一軍公式戦での登板機会がないまま、5月5日に登録を抹消された。ウエスタン・リーグ公式戦では39試合の登板で防御率2.78を記録したが、プロ入り後初めて、一軍公式戦へ登板できずにシーズンを終えた。この結果を受けて、シーズン終了後には、投球フォームを従来のオーバースローからサイドスローに変えた[3]。 2015年には、公式戦の開幕を一軍で迎えると、自身2年振りの一軍公式戦登板を果たした。一軍では、通算5試合の登板で防御率2.08を記録。しかし、10月3日に球団から戦力外通告を受けた[4]ことを機に、現役を引退した。 現役引退後詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
登場曲
脚注
関連項目外部リンク
|