南極地域観測隊南極地域観測隊(なんきょくちいきかんそくたい、英語: Japanese Antarctic Research Expedition, 略称:JARE)は、南極地域での気象や大気、雪氷、地質、宇宙物理、生物、海洋などの観測を行うために日本が南極に派遣する調査隊の名称。通常は南極観測隊と呼ばれる。 概要選考は、業種別に様々である。2度、3度と複数回参加する者もいる。出発前に日本で雪中移動訓練や野外活動訓練が行われる。観測隊は海上自衛隊の保有する砕氷艦(いわゆる『南極観測船』)に乗船し、通常は日本(東京港)を11月14日ごろに出発する。観測隊員は11月末に飛行機でオーストラリアへ渡り、現地で乗艦して昭和基地へ向かう。南極観測船の運航は海上自衛隊が担当する。なお、従来は全員が船で南極へ渡っていたが2009年以降は一部メンバーが先遣隊としてケープタウンを経由し、11月中に一足先に早く空路にて南極基地へ到着する年もある。[1] 東オングル島沖には12月または1月ごろ到着し、昭和基地を最大の拠点として観測を行う。昭和基地到着後は、前年の越冬隊と共同生活となり業務の引継ぎを1か月行う。南極観測船の自衛官も南極基地に入るために、この時期が一番基地が賑わう期間となる。 2月1日に前年の越冬隊と新年の越冬隊が交替する。越冬しない夏隊は、前年の越冬隊と共に南極観測船で(やはりオーストラリアを経由して)日本へ帰還する。この間に、越冬隊が1年間に使用する機材や燃料、食料などが昭和基地に運ばれる。補給はこの1回しか行われない[2][3]。前年の越冬隊が出した廃棄物は南極観測船に載せられ、日本に運ばれて処理される。また、過去に使用した雪上車の廃車など、以前の廃棄物の回収と日本への持ち帰りも行われている。 現在では、約80名で構成され、うち約50名が夏隊・約30名が越冬隊である。(2022年6月24日発表時点では夏隊52名、越冬隊28名)年により隊の人数は変動する。 厳冬に襲われる南極圏への航海の無事を祈願する目的を兼ねて南極観測船に神社が設けられたり、初期にはオスの三毛猫が同行していたりする。第1次越冬隊と共に昭和基地での越冬を経験したオスの三毛猫は、初代観測船「宗谷」船内にて行われたコンテストにて、観測隊隊長永田武の名前に因み、「たけし」と命名されている。なお、南極での動物の持ち込みはかつて重用されたそり引き犬を含め、全て禁止となった。 南極観測船の日本への帰還は例年3月中旬である。観測隊員はオーストラリアで下船し、飛行機で一足先に日本へ帰還する。越冬隊は出発の翌々年に帰還することになる。出港と帰港はテレビのニュース報道で紹介されることも多い。南極は(南半球のため)1月が夏で、比較的接近が容易であるため、この時期に隊の入れ替えが行われる。第1次隊から交代の季節はほとんど変化していない。 参加資格隊員は、国立極地研究所を始めとする政府機関の研究員・職員が多くを占め、会社員が勤務先から派遣される場合は、出向等により一時的に公務員となっている場合が多い。また、大学院生の場合は任期付きで、大学の教員扱いとなることも多い。これらは「隊員」と呼称され、その他のメンバーとして公開利用研究課題の実施等のために申請を行い、認められれば観測隊に同行できる「同行者」が存在する。[4]この場合、身分としては公務員ではなく一般人となり、一般人が正式に許可を受けて南極に訪問できる唯一の手段となる[5]。もちろんこの場合も一般隊員と同様、他メンバーと協力しての作業や相互協力などは不可欠となる。 南極観測船に搭載された輸送ヘリコプターは海上自衛隊が運用するが、観測用の小型ヘリコプターに関しては中日本航空などの民間企業が受注しており社員を派遣している。また基地設営の専門要員としてミサワホームなどの住宅メーカーからの出向者が参加しているほか、2005年からはインテルサット衛星設備の保守要員としてKDDIから毎年1名が参加している[6]。報道記者は年に1名ほどである[7]。 女性隊員の初参加は、1名が1987年(昭和62年)の第29次隊の夏隊に、2名が1997年(平成9年)の第39次隊の冬隊に参加し、女性隊員初の越冬となる。その後も女性隊員は数名ずつ参加し、最多7名が2006年(平成18年)の第48次隊に参加した。ただし、昭和基地の医療体制で妊娠・出産等が考慮されていないことから、妊婦は隊員になることはできない。そのため女性隊員には砕氷艦が帰国する時点で、妊娠反応試験を受けることが義務付けられており、万一その試験で妊娠が明らかになった場合は、日本への帰国が命じられる。 南極越冬隊南極越冬隊は、南極地域観測隊のうち、1年間に渡って南極で観測を続ける隊のことである。混同されがちであるが、観測隊員全員が越冬するわけではない。越冬しないメンバーは「夏隊」、南極で一年を過ごすメンバーは「越冬隊」と呼ばれる。 越冬隊は1年に渡って昭和基地やドームふじ基地などで生活をしながら観測を行う。 また、隊員候補者には残雪が残る3月に乗鞍岳、7月に菅平高原で訓練が実施される。 生活初期のころはかなり厳しい生活であったが、現在の昭和基地では日本とあまり変わらない生活ができるとされている。しかし、居住棟の割り当ては1人約13m2(4畳)の部屋1つで、バス・トイレは共同である。ただし床暖房が効いており室温は保たれている。 公衆電話は管理棟にあるが、電話代は隊員が自費で払う。バーもあるが、バーテンダーは隊員が当番制で務め、客も日ごとに交代する。 食事は調理師免許を持つ隊員の指導の下、各隊員が交代で作っている。冷凍技術の進歩により、食材の種類不足は解消されつつあるが、さすがに後半は生野菜・果物は不足する。古くからモヤシやカイワレダイコンの栽培は行われていたが、発電機の余熱を利用した野菜栽培室が整備されてからは栽培される品目も増え、2015年にはイチゴの収穫にも成功している。なお、土の持ち込みは出来ないので、野菜は種の状態で持ち込まれる。 隊員は基本的に生活に関することは何でも自分で行わなければならない。また、複数の業務を兼ねるのも普通である。たとえ医師であっても雪上車やショベルの運転を任され、アンテナの設置や機器の修理の補助などを日常的に行うことになる。日本を出発する前に、操作に必要な重機等の免許を取得することが求められる。 かつて食事係として小堺一機の父親(小堺秀男 1988)が第9・15次[8]に参加したことがある。明朗闊達な性格で単調になりがちな観測生活を励まし続け、当時の隊員たちからは「陳さん」と呼ばれ親しまれていたという。 南極には風邪の病原体がいないため、隊員達はどんなに寒くても風邪をひかない。また、病原体や病原菌を外部から持ち込まないよう、隊員達は日本出発前に、風邪はもちろん水虫や虫歯に至るまで完全に治療しなければならない。 防寒のため、髭をはやしている隊員も多いほか、丸刈りにして帰国まで散髪を行わない者も多い。 南極から国政選挙に投票する際には『南極選挙人証』を発行してもらう必要がある[9]。 歴史
タロ・ジロ→詳細は「タロとジロ」を参照
1958年(昭和33年)2月、第2次越冬隊は悪天候のため昭和基地への上陸を断念せざるを得ず、滞在中であった第1次越冬隊は小型飛行機で宗谷へ撤退した。このとき第2次越冬隊と対面するはずの15頭の樺太犬が鎖に繋がれたまま基地に取り残された。翌1959年(昭和34年)1月に第3次越冬隊は15頭のうち、兄弟犬「タロ」と「ジロ」が生存しているのを発見、再会した。他の13頭は行方不明または鎖に繋がれたまま餓死した状態で発見された。 このエピソードは1983年に「南極物語」として映画化、2011年に「南極大陸」としてテレビドラマ化された。また、1984年(昭和59年)にテレビ東京で放送されたアニメ『宗谷物語』でも映像化されている他、何人かによって伝記(児童文学)化されている。 なお、1991年「環境保護に関する南極条約議定書」が採択され、その「附属書II」の規定に伴い、そり犬を含め、一切の動物の南極への渡航が禁止され、南極越冬隊の交通手段も犬ぞりからスノーモービル等に主力が移行した結果、21世紀に入る前にはその全ての動物達は日本に帰国した。そのため一切の越冬犬を含めた越冬動物は存在しない。 参考文献
脚注
関連項目外部リンク |