出羽の花義貴
出羽の花 義貴(でわのはな よしたか、1951年5月13日 - )は、青森県北津軽郡中泊町(旧・同郡中里町)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は野村 双一(のむら そういち)。現役当時の体格は185cm、125kg、最高位は、東関脇。得意手は右四つ、寄り、出し投げ、小股掬い。 引退後は年寄・出来山を名乗り、出羽海部屋付きの親方として後進を指導する傍ら、日本相撲協会では理事を1期務めた。 来歴・人物青森県立五所川原農林高等学校を卒業後、日本大学に進学し、相撲部では学生横綱の栄位を獲得するなど活躍した。 日大出身ということで花籠部屋入りも噂されていたが[2]、大学卒業直前に、元力士であった従兄(小山内清三、元前頭13・出羽ノ花好秀)の紹介で、出羽海部屋への入門を決意。入門に際し「昨年ツナ(学生横綱)を取ったとき、プロで力をためしてみたいと思った。学生相手なら左上手を取れば自信はあるが……。一生懸命やります」[2]と語り、出羽海親方は「からだはいいし、真面目。花籠さんに笑われないよう責任も重い」[2]と期待を寄せた。 1974年3月、鳴り物入りで幕下付出力士として、角界入りを果たした。初土俵の同期には拓殖大学相撲部出身の舛田山(自身と同じ、幕下付出での初土俵)、多賀竜、闘竜、大乃花などがいる。 真面目な性格と軽量が災いし、角界の水に慣れるまでに時間が掛かり、初土俵の場所で3勝4敗の負け越しを喫するなど、決して出世は順調とはいえなかった。1975年5月に新十両となるも1976年5月に幕下陥落。そこから一年、幕下上位で過ごし、1977年5月に帰り十両。その場所で11勝4敗の好成績で十両優勝を果たすと十両を三場所で通過。幕下付出からおよそ3年8ヵ月後の1977年11月場所にて、念願の新入幕を果たす。 1978年7月場所にて西前頭9枚目にて10勝5敗で初の敢闘賞。一年後の1979年7月場所にて西前頭11枚目にて再び10勝5敗で二回目の敢闘賞、翌9月場所も東前頭2枚目にて横綱若乃花を破り初金星をあげ8勝7敗で勝ち越し、翌11月場所で新小結昇進を果たすも、3勝12敗と大きく負け越し。上位の壁に苦しみながらじっくりと地力を付け、新旧交代が進み始めた1981年11月場所、東前頭6枚目で10勝5敗の成績を上げてから大きく躍進。 1982年1月場所では小結に昇進し2場所連続で10勝5敗の成績を上げ、以降三役に定着し、念願の新関脇となった3月場所では2横綱2大関を破り9勝6敗の成績を上げ殊勲賞、技能賞をダブル受賞した。翌5月場所では2場所続けて2横綱2大関を破り11勝4敗の好成績で技能賞を獲得。別人の様な活躍を見せ三賞、三役の常連となり、当時31歳にして大関昇進目前まで迫った[3]。しかし、初の大関獲りだった次の7月場所は8勝7敗に終わり、翌9月場所は6勝9敗と負け越して関脇から平幕に陥落、結局念願の大関昇進は果たせなかった。 それでも長く幕内上位から三役で活躍を見せ、“鉄の爪”と呼ばれた怪力を利し、前褌を引いての寄り[3]、出し投げなどを得意とする技巧派として巨砲と並んで“実力者”と呼ばれ上位を苦しめ、1983年3月場所では東前頭筆頭で11勝4敗の好成績を収め技能賞、翌5月場所では関脇に復帰し8勝7敗ながら敢闘賞を獲得、1984年の1月場所では西前頭6枚目まで下がるも二日目から8連勝するなど10勝5敗の好成績で再び敢闘賞を獲得するなど登り調子の新進気鋭の力士にとって「関所の番人」のように立ちはだかった。 特に貴ノ花、若嶋津、隆の里とは互角に戦い、貴ノ花と若嶋津には戦績で勝ち越すなど二子山部屋勢には強かった。また得意技である小股掬いの妙技は絶妙で、本人曰く貴ノ花を倒した一番が印象に残っているという。 以後も平幕上位と小結を頻繁に往復するベテラン実力者としてしばしば好成績を残し三賞を獲得するなど活躍。新国技館のこけら落としとなった1985年1月場所では、初日から9連勝し、11勝4敗の好成績を挙げ敢闘賞を受賞。晩年まで力は衰えず、引退4場所前の1987年7月場所には11勝4敗で、当時新鋭だった同成績の前乃臻を抑え36歳2ヵ月で10回目の三賞(敢闘賞)を受賞。翌9月場所には36歳4ヵ月での三役復帰(小結)を果たしたが、同場所は3勝12敗と大敗を喫した。現役最後の1988年1月場所は前頭7枚目で4勝11敗と大きく負け越し、十両陥落が決定的となったことを機に同場所の千秋楽終了後引退を表明した。 引退後現役引退後は年寄・出来山を襲名し、出羽海部屋で後進の指導に専念。相撲協会の職務では勝負審判、監察委員などを歴任してから、2014年に理事に就任し、当選1期目ながら広報部長の要職に就いて執行部入りした[4]。 2013年7月場所千秋楽では、一般客として愛知県体育館を訪れた元小結・露鵬に対し、関係者以外立入禁止とされている支度部屋への入室を許可してしまった[5]。日本相撲協会から直接の処分はなかったものの、北の湖理事長が監察委員会全体に再発防止の注意喚起を行う事態となった[6]。 2014年7月30日、豪栄道の大関昇進の伝達式では、協会理事として使者を務めた(同じ一門の審判委員である大鳴戸が同行)[7]。 2016年の役員改選では理事候補選挙に立候補せず、任期満了で理事を退任。2016年5月場所中に停年となる65歳を迎えた。停年会見では「稽古、稽古で頑張った。その稽古場も、横綱になった三重ノ海さん、鷲羽山さん、大錦さん、佐田の海らがいて、いい稽古ができる環境だった。」と話し、理事初選出ながら広報部長として執行部入りした14年からの2年間を「一般社会とのつなぎ役として、経験できないことを経験できたこと。」として印象深いことに挙げた。再雇用された後の後進の指導については「しこ、すり足と基本をしっかり教えたい。精神面は素直な心、負けん気の強い子。欲を言えば言い訳をしない若い子を育てたい」と抱負を述べ、自身と同じ学生相撲出身力士には「上には上がある。もっと欲を出してほしい。」と注文した[8]。停年退職後は5年間の再雇用制度を利用し参与として協会に残った。2018年3月の職務分掌では、不祥事根絶を目的とした職務である礼儀作法指導係に任命され、再雇用期間の満了まで勤めた[9]。2021年5月場所中に70歳の誕生日を迎えたため、再雇用期間満了により同場所限りで日本相撲協会を退職した[10]。 主な戦績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
エピソード
関連項目
脚注
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