写研
株式会社写研(しゃけん)は、東京都豊島区南大塚に本社を置く、写真植字機・専用組版システムの製造・開発、書体の制作およびその文字盤・専用フォント製品を販売する企業である。 概要星製薬を退職して写真植字機の実用化を目指していた石井茂吉と森澤信夫が2台目の試作機を完成させた1926年11月3日、石井の自宅を所在地に設立した写真植字機研究所を由来とする。1929年には最初の実用機の販売を開始。戦後1948年に一時的に復帰していた森澤が写研を再度離れ、新たに「写真植字機製作株式会社」(現・モリサワ)を設立したのち[4]も、高度成長期の印刷需要急伸に伴う写真植字の急速な普及の波に乗り、先進的な写真植字機と高品位の書体が評価されて写真植字のトップメーカーに成長した。 1963年の石井茂吉没後、半世紀以上にわたって社長として君臨した三女の石井 しかし1990年代、写植にない操作性の良さと低コストで広く普及したMacintoshによるDTPには背を向け、印字1文字ごとにユーザーから使用料を徴収でき、高額な自社製機器販売による売上が見込める自社固有の電算写植システムに固執したため業績は急激に悪化。過去の利益を蓄えた数百億円に上る多額の内部留保金を温存したまま[7]、2003年以降、大きく事業規模を縮小した[7]。 活字時代のモトヤ出身で1963年から30年余にわたり文字制作責任者として写研の数々の書体の制作や監修を手掛け、のち活字メーカーを母体とするイワタエンジニアリング(現・イワタ)で現場指導にあたり同社を国内有数のデジタルフォントベンダーの1社に育てた書体設計士橋本和夫(イワタ顧問)のほか、写研を代表する装飾書体「スーボ」を生み、のちに字游工房社長として「ヒラギノ明朝体」(1993年)などを送り出した鈴木勉(1998年没)や、今田欣一(欣喜堂)、小林章(独モノタイプ)など、現代のデジタルフォント環境に貢献する著名な書体デザイナーを輩出したことでも知られる。 歴史創業
1940〜1950年代
1960年代
1970年代→「電算写植」も参照
長く活字組版の効率性を越えることができず、主に端物用として扱われた手動写植機の欠点をコンピュータで補うことで、本文組を活字から奪うことを目指した写真植字機「電算写植」は、高額な設備投資がユーザーに可能であった高度経済成長の追い風のもと、写研の「SAPTON」システムが牽引する形で、大手の新聞社や出版社、印刷会社を顧客の中心として1970年代から普及が本格化。「写植」は登場から半世紀を経てようやく組版の主役となったが、地方の印刷会社では経営規模に比べ負担があまりにも過大なため、1971年の長野県を皮切りに、複数社が共同で資金を出し合って電算写植システムを共有する「電算写植協同組合」が設立[8]されるほど、多額の費用を写植機メーカーに支払う必要があった。 1980〜1990年代1980年代、米国のベンチャー企業アドビシステムズ(現・アドビ)は、パーソナルコンピュータで日本語組版を行うDTP環境構築に不可欠な日本語PostScriptフォントの制作を目指していた。アドビは1986年、国内トップメーカーであった写研に提携を持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否。最終的にアドビは業界2位のモリサワと提携し、1989年、モリサワの「リュウミンL-KL」および「中ゴシックBBB」をPostScriptフォント化して搭載したプリンター「LaserWriter II NTX-J」がアップルコンピュータジャパンから発売された[6]。これは1990年代以降の急速な日本語DTP普及の端緒となった。 一方、そのころの写研は電電公社民営化(1985年)に伴う電話回線のデータ通信端末機器開放を受け、1987年以降、各出力装置を電話回線で写研のサーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制を導入。この課金徴収システムの整備と、高額な電算写植機の製造販売で、1991年には年間売上が過去最高の350億円に達した[5]。 しかしバブル崩壊の中、関連機器を含めた一式の導入に安くても数千万円から億単位の投資が避けられない電算写植に比べ、圧倒的に低コストで設備を整えることができ、機器操作専門のオペレーターを介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で[6]、フォントを買い切るためランニングコストも低いという数々の利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータ「Macintosh」とともにすでに急速な普及が始まっていた。写研の経営はピーク翌年の1992年から急速に悪化し、同年から架空の売り上げを計上する粉飾決算で黒字を装い続けた[5]。 写研はフォントレンタル料徴収に加え、組版データをPDF出力する新機能にも従量制の高額な使用料を課すなどして売上維持を図ったが、ユーザーの写植離れとMacintoshへの移行の流れはとどまるところを知らず、1998年には売上175億円の写研に対し、PostScriptフォント事業に注力するモリサワが売上187億円となり、モリサワが年商ベースで写研を抜いた[5]。 書体制作部門の混乱創業者石井茂吉の三女・裕子社長(1963年就任)は1988年3月、総務担当専務や部長など幹部を大量に更迭して、自身が本部長のみならず大半の部長職までも兼務する人事異動を突如実施し[9]、ワンマン経営体制を大幅に強化。裕子は文字部から分離新設した「文字開発部」の部長を兼務し、書体制作現場を直接管理するようになった[9]。翌1989年3月以降、鈴木勉や小林章など文字開発部の主力デザイナーたちの一斉退社が始まり[10][11]、同年9月には鈴木ら退社組の一部が書体デザイン会社「字游工房」を設立して、退社したほかの写研デザイナーも同社に合流した[11]。その後も1990年代末にかけてデザイナーの退社が相次いだ。 裕子自身は没するまで書体制作の実作業に携わったことはなかったものの、開発環境のデジタル化の進展に伴ってワークステーション上での原字修整作業を可能にしたいとする文字開発部内の要望を拒否し、デジタル化した原字データを再度アナログ出力し手作業で修整する従来の工程厳守を命じた[10]。自社広告で創業70周年の1995年に発売を予告していた本蘭ゴシックファミリーは、裕子の要求でデザインコンセプトの大変更を余儀なくされたことも重なり[12]、70周年には間に合わなかった[10]。この時期には「本蘭アンチック」として開発され、「本蘭A明朝U」の名で広告された書体など、開発が進められていた複数の書体が発売に至らなかったほか[13]、裕子は社内で提案された写研書体の自社システム以外での使用開放案も却下した[10]。 巨額の所得隠しと粉飾1999年1月、写研は所得隠しと粉飾決算の疑いで国税庁の査察を前年(1998年)に受け、社内の地下金庫から同庁の査察史上前例のない現金約85億円と割引金融債約25億円が一度に見つかっていたことが明らかになった[14]。 写研は高額な電算写植機の販売が急伸していた1975年ごろから1988年にかけて、自社の取引のほとんどを現金や小切手で行っていたことを利用し、営業部門の売上から取り除いた現金を毎年10億円前後、経理担当幹部が地下倉庫の金庫に運び込み、裏金として蓄財していた[14]。さらに急速な業績悪化が始まった1992年からは、赤字決算を避けようと、裏金を年間5、6億円程度経理に戻し、高いもので一式の価格が1億5000万円の機器などを販売したことを装い、架空の利益を計上して決算を粉飾していた[14]。 発覚時点で脱税に関しては時効が成立していたため、国税庁は発見された現金等を会社資産として繰り入れるよう指導するとともに、割引金融債の時効内の利息分に対してのみ追徴処分をとった[14]。 2000年~2018年写研は2000年、電算写植システム専用の新書体として本蘭ゴシックファミリーを当初の予定から5年遅れで発表したが、結果としてこれが写研最後の新書体となった。売上は対前年比で毎年約10〜30%の落ち込みが続いたため[7]、2003年に早期退職募集を行った結果[7]、組版システム開発にあたるソフト開発部門は56人から3人、製品販売を手掛ける営業部門は46人から1人にそれぞれ激減し[7]、事業体制は零細・小企業並みの規模に転落した。 2006年の売上は機械販売5500万円、機械付属品販売1億4800万円、売上全体の7割を占めるフォントレンタル収入も9億1700万円にとどまり[7]、年商規模は数年前のおよそ10分の1となったが最盛期に蓄えた400億円を超す内部留保だけは取り崩さず[7]、社外から写研の本来の事業とは無関係なアルバイト程度の内職仕事を集めて社内で従業員に従事させ[7]、企業として目立った事業展開や投資は行わないという異様な経営を続けた。2007年7月時点の従業員数は109人で、うち工場所属は40人(埼玉工場30人、川越工場10人)、地方営業所所属は9人[7]と、最盛期の10分の1以下となり、まもなく100人を割り込んだ[6]。高齢化も進んでおり、同年5月現在で従業員全体の7割以上が50歳以上であった[7]。 以後、パーソナルコンピュータによる各種出力が一般化し、機器老朽化や写植用印画紙の供給終了(2013年10月)などによる既存写植機との置き換えが進んだことで、一般商業印刷、放送業界におけるテレビ番組のテロップ、各種屋外掲示物などで広く使われてきた写研書体のほとんどは姿を消した。この間、2011年には石井裕子社長名で写研書体のOpenTypeフォント「写研フォント」の発売を告知したものの実現しなかった。 2018年以降2018年、半世紀以上にわたり代表取締役社長の座を占めた石井裕子が在任のまま92歳で死去した[1][2]。後任社長には資産管理を行っている顧問税理士で取締役の南村員哉が就任し、閉鎖状態となっていた旧工場などの遊休地処分をただちに開始した。同年には旧川越工場(埼玉県川越市)の施設を解体して鶴ヶ島市内の所有地と合わせて住友商事に売却し[15]、同社運営の物流施設「SOSiLA川越」(2019年2月竣工)が進出。2020年には旧埼玉工場(埼玉県和光市)も写研が発注者となって解体工事を開始した。跡地は食品スーパーのヤオコーへ賃貸され[3]、2021年10月にヤオコーが管理・運営する商業施設「the marketplace 和光」となった[16]。2020年8月には南村に加え、前年7月に取締役に加わったばかりの笠原義隆が代表権を取得し[1]社長に就任した。さらに2021年にはモリサワとの共同事業として、かつて頓挫した写研書体のOpenTypeフォント開発に着手することを発表した。 本社は豊島区巣鴨を経て現社名に改称した1972年以降、鉄筋コンクリート造地上6階建の本社ビルを建設した同区南大塚2丁目26-13にあったが、2022年1月14日、閉鎖状態が続いていた隣接地の「写研トライアルセンター」(旧印字部)跡地に、学生寮「ドーミー」を運営する共立メンテナンス設計による「株式会社写研本社・ドーミー大塚」ビル(鉄筋コンクリート造、10階建)を着工[17][18]。2、3階を本社事務所とし、4階以上を学生寮「ドーミー大塚」として共立メンテナンスに賃貸する形で2023年4月12日に本社を移転した[19]。 沿革
代表的な製品特徴写研は「美しい組版のために文字(書体)と組版機器・ソフトウェアを切り離すことはできない」とうたい、両者を抱き合わせた形態でしか販売しなかった。
手動写植機
SK型
SPICA型
PAVO型
Jシリーズ中級機種。
Kシリーズ多機能上位機種。
Bシリーズビジネスフォーム用。
Uシリーズ新聞組版用。
電算写植機SAPTONシリーズ
SAPTRONシリーズ高解像度のCRT上に文字を出力して感材に露光する方式で印字高速化。
SAPLSシリーズアウトラインフォント(1985年、Cフォントと命名)を搭載しレーザーで感材に露光する方式で文字画像を一括出力するイメージタイプセッター(製版機)。
SAIVERTシリーズSAPNET-NをベースにほぼWYSIWYGを実現したレイアウトターミナルで、出力機として校正用プリンターSAGOMESシリーズやイメージタイプセッターSAPLSシリーズが別に必要。印画紙出力に近いイメージを画面表示することができた。ページ物向きとされたSAIVERT-SとSAIVERT-P、端物を主に扱う単ページ用のSAIVERT-Hがあった。
SAMPRASシリーズ
Singis
TELOMAIYER放送用電子テロップ送出装置。
書体写研は、自社製品対応書体のほとんどを社内で設計・開発した。活字に比べ写植文字盤は1書体あたりの専有面積が少なく、字数が多い日本語でも多くの書体を扱うことが可能となったため、同社では積極的に新書体を開発した。1969年には賞金100万円(第1回当時)の石井賞創作タイプフェイスコンテストを設けて開発を奨励。ゴナやスーボ、ナール、ボカッシイなど、ユニークかつ完成度の高いデザイン書体が多く発表された。 写研の主な和文書体の発表年は次の通りである[20]。
※書体名は2001年時点の呼称。当初、本蘭明朝Lは「本蘭細明朝」ファミリー展開前は、ゴナUはゴナ、創挙蘭(現在の創挙蘭E)などはウェイト表示のないものとしてリリースされた。 写研書体の「OpenTypeフォント化」写研は2011年7月、東京ビッグサイトで開かれた「第15回国際電子出版EXPO2011」に出展。従来の方針を大きく転換し、OpenType化した「写研フォント」を年内をめどにリリースすると石井裕子社長名で発表した[21]。写研はこの時点でOpenType化作業は終了しているとして[21]、会場ではどの書体からリリースするべきかのアンケートを行うとともに[21]、印刷業界におけるプロユースを念頭に、Adobe InDesign CS5上での組版やiPadでの電子書籍閲覧などで写研フォントを用いるデモンストレーションを行い[21]、大きく注目された。価格は未定で、電算写植機用デジタルアウトラインフォント(Cフォント、タショニムフォント)で存在する全書体を予定していた[22]。 しかしOpenType化の元データとなったCフォントやタショニムフォントは、1980年代初頭の古い技術と印画紙等への出力を前提とした設計水準で製作されたもので、アウトラインが滑らかな曲線を描いていないなど、現代のデジタルフォントに比べて原字に対する精度が低いため[23]、そのままでは写研が目論んだ商品化ができず、2011年末を過ぎても販売時期未定の状態が続いた[24]。 さらに写植時代の既存文字だけではAdobe-Japan1-3(OpenType Std / StdN、9354グリフ)程度にしかならない問題があり[25]、写研が印刷業界の自社ユーザーに聞き取りを行ったところ、最低でもAdobe-Japan1-4(OpenType Pro / ProN、1万5444グリフ、2000年3月発表)以上を要し、一般的にはAdobe-Japan1-6(OpenType Pr6 / Pr6N、2万3058グリフ、2004年6月発表)が常用される現代の商業印刷におけるプロユースには耐えられない[25][26]との指摘がなされた。印刷業界が求めるAJ1-4以上にするには、写植時代にはなかった不足分の文字を各書体ごとに新しく制作する作業が避けられなかったが、1990年代のデザイナー大量退職と2003年の早期退職募集以後の写研には事実上不可能であり、2016年ごろを最後に「写研フォント」を提供しようとする動きはいったん途絶えた。 モリサワとの共同事業へ2021年1月18日、モリサワは写研社長・笠原義隆およびモリサワ社長・森澤彰彦の双方のコメントとともに、両社共同事業として写研書体のOpenTypeフォント開発を進めることに合意したと発表した[27]。手動写植機試作1号機開発中の1924年に石井茂吉と森澤信夫が行った邦字写植機特許申請100周年に当たる2024年から順次提供するとしている[27]。 書体開発はモリサワと同社子会社の字游工房が共同で行い、写研出身の書体設計士、鳥海修(字游工房)が全体監修を行う[28]。本文書体としてデジタル環境で常用されることを前提とした「改刻フォント」として『石井明朝』ファミリー(「ニュースタイル」および「オールドスタイル」、ウェイト各4種)と『石井ゴシック』ファミリー(ウェイト5種)の計13書体をAJ1-3(OpenType StdN)相当で[28][29]、写植時代のデザインを踏襲した「写研クラシックス」として「石井中明朝」など30書体を見出し用文字セット(4833文字)で[29]、それぞれクラウド型フォントサービス「Morisawa Fonts」において2024年10月15日より提供を開始した。[30] 自社公式サイトの開設写研は1990年代初頭に一時自社ドメイン"SHA-KEN.CO.JP"を取得したものの、更新手続きを行わず1993年に日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)によって削除された[31]。その後21世紀に入っても長く公式サイトが存在しない状態が続いていたが、石井裕子没後の2019年7月19日に"SHA-KEN.CO.JP"を再取得。同ドメインによる自社公式サイトを2021年3月8日に初めて開設し、同年5月26日には過去に発表した自社書体や歴史を紹介する「写研アーカイブ」を公開した。 脚注
関連項目外部リンク
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