公方公方(くぼう)は、前近代の日本において、国家に関する公(おおやけ)のことを体現する方面および国家的統治権、すなわち古い時代の天皇やその朝廷、鎌倉時代、室町時代の将軍に起源する言葉である。特に室町時代の後半には、将軍の公権力の代行者として君臨した足利将軍家の一族の者の肩書きとして用いられた。公方の称号を公方号という。また、将軍、公方の敬称として御所号が用いられた[1]。 沿革「公方」号の発生公は中国において私を内包する観念であり、日本で言うところの民と国家を総合する意味があった。日本語ではこの意が変化し、「公」は「私」を含まない観念で国家の取り扱う領分を意味する語となり、私の対義語となった。このような観念は「滅私奉公」「五公五民」「公私混同」といった用い方にあらわれている。 このような感覚から、古代には日本という国家を一身で体現する存在である天皇を指し示す表現として「おおやけ」という言葉が使われ、天皇やその家、朝廷を「公家(こうけ)」あるいは「公方」と呼称する慣習が生まれた。 特に荘園などの私的な所領が広がりを見せた平安時代後期以後には、国家的な統治権を強調するためにも用いられた。相対的な朝廷権力の低下した鎌倉時代以後には、荘園・公領の一円支配を実現させた本所(寺社・公家)や武家などが、その土地の統治権の保持者として「公方」と名乗る例も登場した。 さらに鎌倉幕府においても弘安6年(1283年)頃より、執権北条氏の得宗・御内人・御内御領に対抗して、皇族将軍を「公方」・御家人を「公方人々」・関東御領を「公方御領」と呼称する規定が成立する。これは、皇族将軍と執権北条時宗を擁して幕政改革に乗り出した安達泰盛が、北条氏の私的権力の幕政への介入を抑制するために、幕府の主権が征夷大将軍とその主従関係下にある御家人にあることを示すために採用したといわれている。 室町幕府の「公方」南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏が朝廷より公方号を許されたことが、室町幕府政所執事伊勢氏の末裔で江戸幕府旗本の伊勢貞丈の『貞丈雑記』に記されている。しかし、尊氏は多分に朝廷や公家の称としての意味合いが強かった公方号を素直には喜ばなかった。尊氏は公方の号を賜ると甲冑をまとうことができないと述べ、辞退するが、朝廷も一旦授けたものを撤回できず、尊氏が預かる形となった。 以降、2代将軍となった義詮の時代になっても用いられることはなかった。しかし、3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称されることとなった。当初、関東管領として鎌倉府に在った足利基氏も、将軍家が公方を称するようになると鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した関東足利氏一族により、公方号が世襲されることとなる。鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。 その後江戸時代には王権をほぼ全て掌握する将軍の別称として完全に定着し、「公方」と言えば徳川将軍だけを意味するようになる。幕府の主宰者たる武家の棟梁は、征夷大将軍を宣下されて後、敬称が上様から公方様に転化することとなり、公方は朝廷の代行者という意味が強かった。 足利一族の公方将軍のあだ名公方は将軍の別称として広く使われるようになったため、時には何某公方というように、公方に揶揄や批判の意味をこめた語をつけたあだ名が庶民によってつけられて知られることもあった。
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