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佐賀の七賢人

佐賀の七賢人(さがのしちけんじん)は、江戸時代末期(幕末)から明治維新にかけて活躍し、その後も功績を残した、佐賀藩(今の佐賀県)出身の七人、鍋島直正島義勇佐野常民副島種臣大木喬任江藤新平大隈重信の総称である[1]

これらの人物は明治時代頃から顕彰されていたものの、「七賢人」と総称されるようになったのは1981年昭和56年)ごろからであるという[2]。佐賀県においては一定の知名度を持ち、2017年10月に佐賀新聞が行った調査では、10.2%の回答者が7人全員の名前を答えられたのに対し、25.4%の回答者は1人も答えられなかった[2]

七賢人の略歴

並びは出生順。

鍋島直正(閑叟)
1814年文化11年)に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として、江戸に生まれる。1830年天保元年)に佐賀藩の第十代藩主となる。武雄領主鍋島茂義の影響を受け開明政策を採用し、1834年(天保5年)に佐賀城下に医学館を建てる(この後、公立佐賀病院の名称を経て、好生館と名を変え、今の佐賀県医療センター好生館の原型となっている)。1850年嘉永3年)に今の佐賀市に反射炉を建てる。明治維新後は議定に就任し大納言の位を受ける。1869年明治2年)に開拓長官となるが任地に赴くことなく1871年(明治4年)に死去。
佐野常民
1822年文政5年)に今の佐賀市川副町に生まれる。1855年安政2年)に日本初の蒸気機関車模型を完成させる。1867年慶応3年)にパリ万博にて赤十字について知る。1877年(明治10年)に大給恒らと博愛社を創設。1880年(明治13年)に大蔵卿に就任。1887年(明治20年)に博愛社を日本赤十字社と改める。1902年(明治35年)に死去。
島義勇
1822年(文政5年)に今の佐賀市に生まれる。1856年(安政3年)〜1857年(安政4年)に北海道樺太を探検・調査。1869年(明治2年)に北海道開拓使主席判官に就任し、札幌のまちづくりの指揮をとる。1871年(明治4年)に秋田県令(現在の秋田県知事)に就任。1874年(明治7年)に佐賀の乱で敗れ、刑死。
副島種臣
1828年(文政11年)に今の佐賀市に生まれる。1869年(明治2年)に参議、1871年(明治4年)に外務卿、1892年(明治25年)に内務大臣に就任。1905年(明治38年)に死去。現在の、佐賀新聞の題字は本人によるもの。
大木喬任
1832年(天保3年)に今の佐賀市水ケ江に生まれる。1868年(明治元年)に東京府知事1871年(明治4年)に初代文部卿1873年(明治6年)に参議、司法卿、1880年(明治13年)に元老院議長に就任。1899年(明治32年)に死去。
江藤新平
1834年(天保5年)に佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれる。1870年(明治3年)、民権の平等や裁判所の設置、三権分立を推進し、近代日本司法制度の整備や民法制定など法典編纂を主導した。1872年(明治5年)に司法卿1873年(明治6年)には参議に就任。1874年(明治7年)佐賀の乱で敗れ、刑死。維新の十傑の一人。
大隈重信
1838年(天保9年)、今の佐賀市水ケ江に生まれる。1870年(明治3年)、参議、1873年(明治6年)、参議兼大蔵卿になる。1882年(明治15年)3月、立憲改進党結成。同年10月、東京専門学校(現在の早稲田大学)を開校。1888年(明治21年)、外務大臣1898年(明治31年)、内閣総理大臣第1次大隈内閣)。1914年(大正3年)、2度目の内閣総理大臣(第2次大隈内閣)。1922年(大正11年)に死去、国民葬

「佐賀の八賢人」

「佐賀の七賢人」に、副島の実兄の枝吉神陽を加えて「八賢人」とされることもある[3][1]

枝吉神陽
1822年(文政5年)に今の佐賀市に生まれる。副島種臣は実弟。1850年(嘉永3年)に「義祭同盟」を結成し、尊王運動を展開。「義祭同盟」は副島種臣のほか大隈重信・江藤新平・大木喬任・島義勇に影響を与えた。1863年(文久3年)に死去。

  1. ^ a b 佐賀の12賢人 佐賀市[佐賀県]”. 佐賀市. 2019年9月1日閲覧。
  2. ^ a b さが維新塾(7) 青嶺中学校(伊万里市)で出前授業”. 佐賀新聞LiVe. 佐賀新聞 (2018年3月25日). 2019年9月1日閲覧。
  3. ^ 福岡博『佐賀の幕末維新 八賢伝』(出門堂)、龍造寺八幡宮・楠神社編『枝吉神陽先生遺稿 楠神社御遷座百五十年祭記念出版』(出門堂)。

外部リンク

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