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中根之

中根 之
1955年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県
生年月日 1910年9月21日
没年月日 (1992-04-26) 1992年4月26日(81歳没)
身長
体重
171 cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1936年
初出場 1936年
最終出場 1938年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

中根 之(なかね すすむ、1910年9月21日 - 1992年4月26日[要出典])は、兵庫県出身のプロ野球選手外野手)、プロ野球審判員。日本プロ野球初代の首位打者

来歴・人物

1910年9月21日に兵庫県で生まれる。神戸市立第一神港商業学校では1929年第6回選抜中等学校野球大会に出場し、決勝戦で私立広陵中学校を下して全国制覇を達成した。

1936年名古屋軍へ入団すると、同年秋季に打率.376を記録し、日本プロ野球の初代首位打者となった[1]。なお、この記録は戦前のプロ野球(1リーグ時代)における最高打率で、日本プロ野球史上で僅か3人しか存在(ほかに岡村俊昭正田耕三)しない「0本塁打の首位打者」でもある。1937年イーグルスへ移籍し、1938年秋季を最後に現役を引退した。

セ・パ両リーグ分立後の1952年毎日オリオンズの二軍打撃コーチに就任し[1]、翌年には二軍監督に昇格した[1]1955年の時点では「養成主任」として二軍打撃コーチに配置転換されている[2]。その後、コーチを退任したが具体的な年月は不明である。

コーチ退任後はパシフィック・リーグ審判員を務め、二出川延明が「オレがルールブックだ」と発言したとされる試合にて、そのきっかけとなった判定を下したのが中根である。1963年8月にジャック・ブルーム近鉄バファローズ)に対して退場を宣告したことを巡り、近鉄ファンを名乗る人物からの脅迫状が届く。中根はパシフィック・リーグ幹部と相談後に休養を取り、そのまま審判を辞任した[3]。その後の消息は分かっていない。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1936春夏 名古屋 12 45 38 4 8 2 0 0 10 4 3 -- 2 -- 5 -- 0 4 -- .211 .302 .263 .565
1936 25 111 93 20 35 2 3 0 43 7 7 -- 4 -- 11 -- 3 8 -- .376 .458 .462 .920
1937 イーグルス 52 221 185 32 57 6 4 2 77 13 12 -- 5 -- 27 -- 4 21 -- .308 .407 .416 .824
1937 20 82 62 16 18 1 1 1 24 9 2 -- 2 -- 15 -- 3 8 -- .290 .450 .387 .837
1938 35 147 127 22 36 5 1 1 46 8 4 -- 1 -- 18 -- 1 13 -- .283 .377 .362 .739
1938 37 154 135 20 29 7 2 3 49 12 11 -- 3 -- 14 -- 2 21 -- .215 .298 .363 .661
通算:3年 181 760 640 114 183 23 11 7 249 53 39 -- 17 -- 90 -- 13 75 -- .286 .385 .389 .774
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

背番号

  • 15 (1936年)
  • 16 (1937年 - 1938年)
  • 30 (1952年 - 1953年)
  • 50 (1955年)[2]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c #森岡 p.364
  2. ^ a b #ベースボールマガジン p.73
  3. ^ 織田淳太郎『審判は見た!』新潮新書、2003年

参考文献

  • ベースボールマガジン』第10巻第4号、ベースボールマガジン社、1955年、73頁。 
  • 森岡浩(編著)『プロ野球人名事典 増補改訂第3版』日外アソシエーツ、1992年。ISBN 4-8169-1128-6 

関連項目

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