上部構造上部構造(じょうぶこうぞう、独: Überbau, 英: superstructure)は、カール・マルクスの著作『経済学批判』(独: Zur Kritik der Politischen Ökonomie)の序言(Vorwort)[3][4]等で提示された史的唯物論の基本概念のひとつ[5][6]。それによると時代の生産総体と経済(下部構造)に規定される法律的・政治的社会構造であるとされた。 概要この生産諸関係の総体が社会の経済的構造、すなわち現実的基盤をなしている。
この基盤の上に法的政治的な上部構造が建っており、その上部構造に特定の社会的意識形成が呼応する。 上部構造は政治的・法制的な諸関係や社会的意識の諸形態、たとえば道徳・宗教・芸術などのことである[5]。これらは生産関係の総体を土台としており、その土台に依存しかつ土台が変化するに応じて変化することから上層建造物の比喩として「上部」構造と名付けられている[5][8]。他方で、上部構造が下部構造に反作用して変化をもたらす働きも存在している[5]。この上部構造という概念の発想は、唯物史観から観念論的な歴史観や政治を歴史的発展の駆動力とみる政治史観・英雄史観などを退け、その歴史観を確立させた[8]。 ただし、マルクスの著作中において「上部構造」の語は一定の意味で用いられていたわけではない。『経済学批判』における「唯物史観の公式」では政治的・法制的制度のみを上部構造としているが、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』では社会的意識諸形態を含めた一切の意識表象を上部構造としている[8]。また、マルクスは一貫して「科学」を上部構造に含めていない[8]。
マルクスの論においては下部構造と上部構造の関係は直接的なものではなく、階級闘争に固有の推進力や社会編成の諸要素間の相互作用について強調している[7]。またフリードリヒ・エンゲルスも同様に上部構造は相対的な自律性を持っており、経済的条件が決定的となる場面は「最終審級」のみであるとしている[7]。マルクス主義者のうち「経済中心主義者」と呼ばれる学派はこのマルクスが『経済学批判』で示した定式に関して、あらゆる社会編成は下部構造によってただちに決定されるもので、上部構造の表象は下部構造の反映にすぎないという機械論的解釈を加えている[7]。 廣松渉は、ヨシフ・スターリンが1950年に著した『マルクス主義と言語学の諸問題』を発端として「言語や科学は上部構造には属さない」という説が有力となったことなどから、上部構造はマルクス主義者の間においても確定的に定義されていないとしている[8]。 日本における文学論争1955年(昭和30年)、高橋義孝は、「文学は上部構造か」という論考を発表し、文学は普遍的な人間性を描くもので、上部構造とはいえないのではないかという問題提起をおこなった。これは、ハンガリーの美学者、ルカーチ・ジェルジの1954年の論考、『上部構造としての文学』に触発されてかかれたものであった。それに対して、本多秋五や小田切秀雄たちが反論した。このとき、マルクスが『経済学批判への序言』で書いたとされる、ギリシア文学に対する言及が焦点のひとつとなった。 脚注
関連項目外部リンク
|