ミャンマー
ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်[注 4])、通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。 イギリスから独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、通称ビルマ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、人口は5441万人(2021年)[1]。 概要独立まで初期の文明としてはモン族が南部に、ピュー族の都市国家が中央の乾燥地帯に栄えたが、南下してきたビルマ族が1050年代にパガン朝を建てた。パガン朝が1287年にモンゴルの侵略で滅ぼされた後は小国が分立したが、ビルマ族のタウングー朝が1531年に国土を再統一。タウングー朝は1752年にモン族に滅ぼされたが、間もなくコンバウン朝が成立して全ビルマを統一。 19世紀に3度にわたる英緬戦争でコンバウン朝が滅びた後はイギリス植民地となった。1886年にイギリス領インド帝国の一州とされたが、1935年にはインドと分離された。第二次世界大戦中に日本の占領を受け、ビルマ国としてイギリスから独立したが、日本の敗戦で連合国に再占領され、イギリス植民地に戻った。その後英植民地体制崩壊の流れの中で、パンロン会議を経て1948年に英連邦に参加せず、ビルマ連邦共和国として独立。 独立後1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党のネ・ウィンの独裁政権となる[3]。1974年に国名をビルマ連邦社会主義共和国と改名。1988年に民衆の民主化運動でネ・ウィン体制は崩壊したが、これを危惧したミャンマー国軍がクーデターを起こして軍事政権を設立し、国名をミャンマー連邦に改名した[4][5]。 独立してからのほとんどの期間、ミャンマーは横行する民族紛争に巻き込まれ、無数の民族グループが世界で最も長く続いている内戦の一つに巻き込まれてきた。この間、国際連合をはじめとするいくつかの組織は、一貫して組織的な人権侵害を報告してきた[6][7][8]。 2010年の総選挙で軍事政権が正式に解散し、2011年には名目上の文民政権が発足した。これにより、アウンサンスーチーや政治犯の釈放とともに、同国の人権記録や対外関係が改善され、貿易などの経済制裁が緩和された[9][10]。また国名をミャンマー連邦共和国に改名した[4][5]。しかし、政府の少数民族への扱いや民族反乱への対応、宗教的な衝突への批判が続き[11][12]、2015年に行われた画期的な選挙でアウンサンスーチーの党が両院で過半数を獲得したが、ミャンマー軍は依然として政治に大きな影響力を持ち続けた。2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、非常事態を宣言した。軍は政権が国軍トップのミン・アウン・フライン最高司令官に「移譲された」とし、政権を奪取したと発表した(2021年ミャンマークーデター)[13]。 民族・宗教多民族国家で[14]、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。ほかにロヒンギャ、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族[15]などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多く[16]、中国人やインド人もいる[4]。(言語参照) 宗教は住民の大半(85 %)が上座部仏教を信仰し、他にヒンドゥー教などがある[4]。 対外関係・経済ミャンマーは東アジアサミット、非同盟運動、ASEAN、BIMSTECに加盟しているが、イギリス連邦には加盟していない。ヒスイや宝石、石油、天然ガスなどの鉱物資源が豊富な国である。再生可能エネルギーにも恵まれており、太陽光発電のポテンシャルは大メコン地域の中で最も高い[17]。2013年のGDP(名目)は567億米ドル、GDP(PPP)は2215億米ドルであった[18]。経済の大部分が旧軍事政権の支持者によって支配されているため、ミャンマーの所得格差は世界で最も大きい[19][20]。 地理インドシナ半島の西海岸をしめるミャンマーの国土は、日本の約1.8倍の面積を持ち、南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。インドとミャンマーはベンガル湾を挟み相対している[注 5]。国境は、南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと接する。 おおむね北部が高く南部が低い地形であり、西部にはアラカン山脈(最高峰は3,053 mのヴィクトリア山)が南北に走る。東部はラオスやタイに続くシャン高原(シャン州)が広がっており、サルウィン川が南流している。中央部をイラワジ川とシッタン川が南流し、下流部に大デルタを形成している。南東端タニンダーリ地方域は入江と小島が多い。熱帯季節風気候であり、雨季(5 - 10月)と乾季(11 - 4月)の別が明瞭である[4]。 国名→「ミャンマーの国名」も参照 公式名称はミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ビルマ語: ပြည်ထောင်စုသမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်, Pyihtaungsu Thamada Myanma Naingngantaw, 発音 [pjìdàʊɴzṵ θàɴməda̰ mjəmà nàɪɴŋàɴdɔ̀])である[22]。1948年の独立時はビルマ連邦(ビルマれんぽう)の国号を採用していたが、1974年にビルマ連邦社会主義共和国(ビルマれんぽうしゃかいしゅぎきょうわこく)、1988年に再びビルマ連邦に戻ったのち1989年にミャンマー連邦(ミャンマーれんぽう)、2011年にミャンマー連邦共和国と変更された[23]。通称ミャンマー(မြန်မာ、Myanma)。漢語の名称として緬甸(めんでん、ビルマ)があり[24]、単に緬(めん)の一文字で同国を表すこともある[25]。 同国を表す名称としては「ミャンマー」と「ビルマ」のふたつがある。いずれの名称も、ビルマ人のビルマ語民族名である Mranma ないし Mramma に由来する[26]。語源は不明であるが[26]、サンスクリットで「ブラフマーの土地」を意味する Brahma Desha に由来するという説が一般に知られている[27]。両者には文語・口語の違いしかなく、文脈に応じて自由に使い分けられてきた。しかし、1989年6月、8888民主化運動の鎮圧を経て成立した当時の軍事政権が対外的な名称を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更し、前者をビルマ人を指す呼称、後者をミャンマー国民一般を指す呼称と設定したことによって、政治的文脈が生まれた[28][29]。 国際連合・ASEAN・日本・インド・中国などは「ミャンマー」への国号変更を承認した一方で、主に軍事政権の正統性を認めない立場から、アメリカ・オーストラリア・カナダ・イギリスなどは「ビルマ」の国号を使い続けた[30][31]。2015年ミャンマー総選挙を経て、文民として政権を握ったアウンサンスーチーは、2016年に「ミャンマー」と「ビルマ」の双方を容認する姿勢を明らかにした[32]。軍政と「ミャンマー」の国号のつながりが希薄になるにつれて、「ミャンマー」国号の利用も一般的になった一方で、アメリカ政府は民主主義政権下においても、2021年のクーデター後も、公の場では「ビルマ」の語を用いることが多い[33]。 歴史→詳細は「ミャンマーの歴史」を参照
先史からバガン王朝の崩壊まで75,0000年前にはホモ・エレクトスが現れ[34]、ホモ・サピエンスの痕跡としては、熱ルミネッセンス法によるパダリン洞窟の調査により、30,000年前のものが明らかになっている[35]。ミャンマー低地平原における旧石器時代文化をは低地のアニャティアン文化(Anyathian)と高地カルストの文化に分類することができ、前者は更新世中期から完新世前期、後者は11,000年前ごろ以降に発展したものと考えられている[36]。10,000年前から6,000年前のいずれかの時期に、パダリン洞窟などの新石器時代遺跡が現れ[37]、紀元前1500年には青銅器時代に突入する[38]。紀元前500年にはマンダレー近郊で鉄器が作成されるようになった[39]。 紀元前2世紀頃より雲南から南下してきたピューが都市国家をつくるようになり[40]、9世紀までにモン諸王国やアラカンなどでも諸国家が栄えた。750年代から830年代にかけて、ピューが南詔の侵入を受けると、これら諸国の均衡は崩れた。9世紀中期から後期にかけて、ビルマ人がバガンに小規模な定住地を築いた[41]。11世紀にはパガン王朝がエーヤワディ川流域とその周辺地域をはじめて統一し、12世紀から13世紀にかけてはクメール王朝と並ぶ東南アジアの大国となった[42]。しかし、モンゴルのビルマ侵攻により衰退した王朝は没落していき、ペグー王朝、ミンザイン王朝、ピンヤ王朝・ザガイン王朝、アヴァ王朝といった諸王国が興亡を繰り返すようになる[43][44]。 タウングー王朝とコンバウン王朝16世紀にはタウングー王朝が覇権を握り、タビンシュエーティー王と、その義弟であるバインナウン王は遠征を繰り返し、マニプールからアユタヤに及ぶ広大な版図を手に入れた。しかし、王朝の出発点であるタウングーの反乱勢力とアラカンのムラウウー王国、さらにはアユタヤ王朝の攻撃により、タウングー王朝は滅亡する[45][43]。バインナウン王の子であるニャウンヤン王はタウングーから離反したアヴァを制圧し、復興タウングー王朝を成立させる。その子であるアナウペッ・ルン王はミャンマーを再統一するも、1752年に復興ペグー王朝がこれを滅ぼした[46][43]。 復興タウングー王朝崩壊の混乱の中で、シュウェボーの領主であったアラウンパヤー王は勢力を広げた。アラウンパヤー王は1757年にはペグーを陥落させ、コンバウン王朝が成立した。トンブリー王朝のタークシン王が伸長すると、王朝の版図はサルウィン川以西に限定されるようになった。ボードーパヤー王は1784年にムラウウー王国を征服する[47]。 しかし、1826年の第一次英緬戦争ではアラカン・テナセリムがイギリスの勢力下に置かれ、1851年の第二次英緬戦争ではエーヤワディ・デルタの支配権も失った。こうした状況下、ミンドン王は西洋技術を取り入れ、富国強兵政策を実行しようとしたものの[48]、ティーボー王の治世下、1885年の第三次英緬戦争を経てミャンマーの全域がイギリスの植民地となってしまう[43]。 イギリス植民地時代から現代まで英緬戦争に敗れたビルマは1886年に英領インドに編入されてその1州となった[49]。20世紀に入り、イギリスによるビルマ支配が安定を示すようになると、「ビルマ人の国民国家」を目指すビルマ・ナショナリズムが台頭するようになる[50]。1937年にはビルマは英領インドから分離され、英領ビルマとなる[49]。初代ビルマ植民地政府首相には、こうしたビルマ系政治組織であるビルマ人団体総評議会(GCBA)系の政治家であるバモーが選ばれたものの[51]、この時期結成された英国による植民地支配を糾弾する急進派組織であるところのタキン党は、GCBAの立場を批判した[52]。1942年の日本軍のビルマ侵攻にあたっては、タキン党の構成員を中心とするビルマ独立義勇軍(BIA)が形成され、1943年には「ビルマ国」が成立する[53]。しかし、日本の敗色が濃厚になった1944年には、BIAのちビルマ国民軍を率いたアウンサンらにより反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が結成され[54]、対日蜂起がはじまった[55]。 太平洋戦争終戦後の1948年にはウー・ヌ率いるビルマ連邦が成立するものの、ビルマ共産党(CPB)やカレン民族同盟(KNU)の反乱により、情勢は混乱を極めた。国軍司令官のネウィンは1962年ビルマクーデターを経て政権を握ったが[56]、1988年の8888民主化運動により彼が率いるビルマ社会主義計画党(BSPP)政権は崩壊し、ソウ・マウンら国家法秩序回復評議会(SLORC)が政権を握った。1992年より統治者はタン・シュエに交代した。2010年ミャンマー総選挙を経たテインセイン政権の成立をもって軍事独裁は終了したものの、同政権につぎ2016年に成立したアウンサンスーチー政権は、2021年ミャンマークーデターにより転覆し、独立以来続いていた内戦は激化の動向を見せている[43]。 政治
ミャンマーは大統領を元首とする共和制国家であったが、2021年ミャンマークーデターにより、国家行政評議会議長を事実上の国家指導者とする軍事政権となっている。 ネ・ウィン将軍が、1962年に軍事クーデターを起こし、憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続いていた。 軍政以前の議会は、一院制の国民議会(英語でPeople's Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で任期4年。前回選挙は、1990年5月27日に投票が行われ、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) 392(81%)、シャン諸民族民主連盟 (SNLD) 23を獲得、国民統一党 (NUP) 10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けた。その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、1990年にビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を組織し、軍事政権への対抗勢力として活動していた。1993年には新憲法制定のための国民会議が招集されたが、NLDはボイコットした。 1988年に民主化運動が高揚した際に、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加え、翌1989年にはアウンサンスーチーを軟禁、さらに翌年の1990年にはアメリカ合衆国に上述のビルマ連邦国民連合政府が設立されている。そのトップはアウンサンスーチーの従兄弟のセイン・ウィン(Sein Win)であった。その後、軍事政権は1994年から2007年にかけて、新憲法制定に向けての基本原則や内容を審議する国民会議を断続的に開催してきた。 2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、それに対し軍事政権は武力による弾圧を行い、日本人ジャーナリスト・長井健司を含める多数の死傷者を出した。2007年10月24日、民主化勢力に対し強硬な対応をとってきた国家平和発展評議会 (SPDC) 議長および国家元首であったタン・シュエと長らく行動を共にしてきたテイン・セインが新首相に就任。前首相ソー・ウィンまで続いていた軍主導の政治体制の改革が、テイン・セインの下で開始される。2008年5月10日及び同月24日に、新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が一歩一歩と計られるようになる。当時国家元首であったタン・シュエは表向き「私は一般市民になる、民主政権なのだから」と発言している[注 6]。 2010年2月13日、政府は最大野党・国民民主連盟 (NLD) の2003年5月から拘束されていたティン・ウ副議長の自宅軟禁を解除した[58]。同年2月15日、国連人権理事会のトマス・オヘア・キンタナ(Tomas Ojea Quintana)特別報告者がミャンマーを訪れ、自宅軟禁中のアウンサンスーチーとの2009年2月以来3度目となる面会を求めた[59]。4月26日、テイン・セイン首相は軍籍を離脱し、29日に連邦団結発展党を結成。10月21日、国旗を新しいデザインに変更すると発表[60]。11月7日には2008年の新憲法に基づく総選挙が実施され、連邦団結発展党が8割の得票を得て勝利宣言を行った。11月に政府はアウンサンスーチーの軟禁期限を迎えると発表し、13日に軟禁状態が解除された。拘束・軟禁は1989年から3回・計15回に及んだ[61]。 →「2010年ミャンマー総選挙」も参照
2011年1月31日、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた[62][63]。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意[64]。10月12日には政治犯を含む受刑者6359人が恩赦によって釈放された[65]。11月4日、テイン・セイン大統領は、政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認[66]。また2008年憲法の「順守」を「尊重する」に緩和した。11月25日、国民民主連盟 (NLD) は全国代表者会議を開き、長年認められなかった政党(野党)としての再登録を完了した。年内にも行われる国会補選に参加することを決めた。 その後、2016年3月30日に国民民主連盟が選出したティンチョーが54年ぶりの文民大統領に就任した。 2021年2月1日、軍事クーデターが発生しミャンマー国軍総司令官が全権を掌握した[67]。 元首・行政国家元首は、2011年3月より大統領となっている。同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出された。さらに、2016年3月にはNLDのティンチョーが大統領に就任した。
ただし、NLDがティンチョーを大統領に擁立したのは、軍事政権下で制定された憲法の規定ではNLD党首のアウンサンスーチーが大統領就任資格を奪われている(アウンサンスーチーはイギリス国籍の息子を持つのであるが、憲法では外国籍の配偶者や子を持つ者は大統領になることはできない)ため、アウンサンスーチーの「代理」としての意味合いであった。アウンサンスーチー自身も、新大統領は何らの権限を持たない傀儡であって全てを決定するのは自分であると明言していた。新政権ではアウンサンスーチーは外務大臣兼大統領府大臣、さらには新設の「国家顧問」に就き、政権の実権を掌握する体制を整えた。国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は、事実上は大統領への「指示」となると予想されている。 2021年2月1日、ミャンマー軍は大統領と国家顧問を拘束し全権を掌握したと発表した。これにより国軍最高司令官が事実上の国家の指導者となった。 2021年2月2日、ミャンマー国軍は、軍幹部ら16人による国家行政評議会を設置したと発表した。この機関は閣僚の人事権も握っており、軍事政権における行政の最高機関になっているとみられている。 立法→詳細は「ミャンマーの政党」を参照
2008年に制定された新憲法により、二院制の連邦議会(Pyidaungsu Hluttaw)が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が440議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。 2010年11月7日、新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施された。軍事政権の翼賛政党連邦団結発展党 (USDP) は上下両院と地方議会合わせて1000人以上を擁立した。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) の分派である国民民主勢力 (NDF) は、140人にとどまった。NLDは選挙関連法が不公平だとして選挙のボイコットを決め、解党された[68]。総選挙の結果、USDPが全議席の約8割を獲得し[注 7]、NDFの議席は少数にとどまった。 2011年1月31日、総選挙後初の連邦議会が開幕し、複数政党制による議会としては49年ぶりの開催となった[70]。 2012年4月1日にはミャンマー連邦議会補欠選挙が実施された。NLDはアウンサンスーチーを含む44人の候補者を擁立し、同氏含む40人が当選するという大勝を飾った[71]。 2015年11月8日に行われた総選挙でNLDが単独過半数の議席を獲得した。 司法
国際関係→詳細は「ミャンマーの国際関係」を参照
一般ビルマは中立的な立場による等距離外交を基本方針としているが、1983年10月にはラングーン事件を起こした北朝鮮と国交を断絶した(2006年10月に国交回復)他、1997年7月には東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟している。また、欧米諸国とは、ビルマ国内の人権問題や政治の民主化をめぐる問題で対立しており、欧州連合(EU)からは経済制裁を受けている。その一方で、インド洋方面への進出口を求めている中国からは多額の援助を受けている他、インドとは経済的な結びつきを強化しているなど、近隣の大国とは比較的良好な関係を築いている。また、軍事面から北朝鮮との関係が改善している。 歴代のタイ政府は、タイ・ビルマ国境に展開する反軍政民族武装勢力の存在を基本的に黙認し、ビルマ国軍とのバッファーゾーンとして利用してきた。また1990年代のタイ民主党政権(チュワン、アナン両政権)はビルマ軍政の政策に批判的な立場を取り、軍政との関係も決して良好ではなかった。しかし1990年代後半には保守政治家チャワリット・ヨンチャイユットらが提唱する「建設的関与」論が力を持った。タイ政府はビルマとの距離を縮める方向に傾き、1997年のビルマのASEAN加盟にも賛成した。これは軍事政権の長期化を踏まえた上で、政治改革に向けた努力を後景に退かせ、国境地域の天然資源確保や国境貿易の拡大による経済効果を優先した結果である。ASEAN加盟後のタイのチュワン・リークパイ政権やマレーシア政府の取り組みの積極性は、少なくとも主観的には、ビルマを地域政治の枠組みに入れた上で、民主化を促す点にあった。ビルマへの「建設的関与」策が成功すればASEANの国際的地位を飛躍的に高めるはずだったが、ビルマ軍政は自らの支配を危うくするあらゆる改革に反対する姿勢を貫き、この舞台に乗ることは決してなかった。アウンサンスーチー襲撃事件と同氏の自宅軟禁の継続、キン・ニュン元首相の更迭劇、首都移転、ASEAN側が派遣した特使への丁重とはいえない処遇といった一連の政治的動きは、ASEANの「建設的関与」策が短期的には奏功しないことを示した。チャワリットに代表される経済優先路線を拡大したのがタクシン政権である。同政権は国境の反政府武装勢力への圧力を強め、タイ国内の反政府活動家や難民への取締を強化している。 2007年、アメリカとイギリスは軍事政権にアウンサンスーチーを始めとする全ての政治犯の即時釈放を求める非難決議を提出し、1月12日国際連合安全保障理事会で採決した。しかし、中国とロシアが拒否権を発動し、否決された(賛成は米、英、フランスなど9カ国。反対は中、露、南アフリカの3カ国。棄権はインドネシア、カタール、コンゴの3カ国)。ASEAN諸国では、軍事政権への非難には慎重論が強い。 2007年10月11日、国連安全保障理事会は、僧侶や市民らによるデモに対する軍事政権の実力行使を強く非難する議長声明案を、全会一致で採択した。 軍政時代には中国[72]や北朝鮮といった独裁国家と親密であったミャンマーであったが、2011年以降急速に進んだ民主化により、それまで冷え切っていた欧米との関係が改善した。アメリカのヒラリー・クリントン国務長官はネピドーを訪れた際、北朝鮮と縁を切るよう公式にテイン・セインミャンマー大統領との会談で要請した。 しかし、アウンサンスーチーが事実上のトップとなった後もロヒンギャ問題が起きたことで欧米との関係が冷え込んだ。 2021年2月1日に発生したミャンマー軍のクーデターでアウンサンスーチーが拘束され、軍事政権が復活するとアメリカやヨーロッパ諸国、日本、インド、国連、欧州連合からアウンサンスーチー解放と民政復帰を求める強い批判が起きた。特にアメリカ政府は制裁の復活をちらつかせているが、米軍とミャンマー軍に交流はほとんどないため、制裁の効果は限定的ではないかと見られている[73]。 対欧米関係アメリカ政府はミャンマーの軍事政権に対して制裁を課してきたが、同国が民政移管を開始した2011年から段階的に制裁を解除してきた[74]。しかし、2021年の軍部クーデターで再び軍事政権になり、市民の抗議デモの弾圧を開始したことを受けて制裁を再開した。ヨーロッパ諸国もアメリカに同調して制裁を再開。ミャンマーと欧米は再び対立関係に入った[75]。 対中関係→詳細は「中緬関係」を参照
経済的に強く結びついており一帯一路構想に参加している。また欧米とは違い中国は国内の人権問題に口を出さないため接近している[76]。 特にミャンマー国軍は軍政時代から中国と親密な関係にあり、2021年2月1日のミャンマー軍によるクーデターの際にも国際社会がミャンマー軍を強く批判する中で中国はミャンマー軍を批判する声明を出さなかった[73]。 2021年3月23日、クーデター後に設置された最高意思決定機関の国家行政評議会の報道官は、今後ミャンマーは中国など近隣5ヶ国と関係を強化し、価値観を共有することで欧米には屈しないとする決意を表明した[77]。 4月1日、中国外相の王毅は欧米のミャンマー制裁について「出しゃばって勝手に圧力を加えるべきではない」と批判し、欧米はミャンマーへの「内政干渉」をやめるべきだと主張した[78]。 対日関係→詳細は「日緬関係」を参照
日本とビルマはアウンサンの時代から大変濃密な関係にあり[79]、1954年11月の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは親日的な政策をし、このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしたともいわれる。日本は欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ビルマの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、“対話による解決を粘り強く働きかける”方針を採用し(長井健司射殺事件に関する福田康夫首相の発言「ただちに制裁するかどうかは、もう少し状況を見極めなければならない。わが国の援助は人道的な部分が多く、いきなり制裁ということではない[80]」など)、幾度か軍事政権に働きかけを行ったものの、長い間芳しい成果が上がらなかった。ビルマの軍歌には『軍艦行進曲』の旋律を流用したものがあり(ただし、歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られる)、ビルマ軍部の親日的傾向を示す根拠として提示されることがある。 1981年4月、ミャンマー政府は独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、最高勲章である「アウンサン・タゴン(=アウンサンの旗)勲章」を叙勲した[81]。 日本では東京の高田馬場に日本国内最大の在日ビルマ人コミュニティが存在し、ビルマ料理店やビルマ語教室などが集中している。在日ミャンマー人は約4万7千人(2022年)[82]。 2012年2月、日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区の上水道・下水道・道路・光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負った。実際の開発はミャンマー側が日本企業を誘致して行う。ミャンマー側も日本に開発を委ねる意思をテイン・セイン大統領が示していた[83]。 イスラム系少数民族のロヒンギャの弾圧をめぐる国連事実調査団の設置に反対するなど日本は米欧に比べミャンマー政府寄りの立場を取る傾向にある[84]。 しかし2021年ミャンマークーデター後には抗議デモ弾圧を受けて日本政府はミャンマー軍を批判し、拘束中のアウンサンスーチーらの解放、民主的な政治体制の早期回復を求めた[85]。 国家安全保障→詳細は「ミャンマー軍」を参照
ミャンマー国軍は1942年に創設されたビルマ独立義勇軍をその起源とし、国軍最高司令部、陸軍司令部、三軍情報司令部、空軍司令部と海軍司令部などからなる。現有兵力は約41万人で、陸軍37万5千人、海軍1万6千人、空軍1万5千人からなる。この他に警察部隊7万2千人と民兵3万5千人が存在する[86]。陸軍は13の軍管区を中心に編制されている。海軍基地、空軍基地が各6個ある。長年、志願兵制であったが、2011年に徴兵制が敷かれた(詳細は不明)。 →「ミャンマー内戦」も参照
1950年代に国共内戦に巻き込まれた経験から対外的な軍事同盟締結を拒否し、原則的に外国に対して軍事基地を提供していない。ただし、中国は例外で、1994年6月から大ココ島を賃借しており、中国はレーダー基地と軍港を建設している。この中国の海洋戦略は真珠の首飾り作戦と呼ばれ、アメリカ・英国・インドのインド洋における制海権に対して挑戦するものとの見方もあるが、中国にとってもポートスーダンとのシーレンを守るエネルギー戦略上の拠点となっている(中国・ビルマ・パイプラインを参照)。 近年ではこの中国の支援に対抗する形で、小規模ながらインドからも航空機や中古戦車の装備の導入が始まっている。 1990年代までは「反共」を標榜する独自の社会主義であるビルマ式社会主義を取っていたため、旧東側諸国からの支援はほとんど行われず、西側諸国にしても南ベトナムのようなケースと異なり限定的に装備の提供を行ってきた。このため、1980年代までは「黄金の三角地帯」対策として供与されたアメリカの装備(M101榴弾砲、UH-1汎用ヘリコプター、AT-33COIN機、ターボスラッシュ農業機―ケシ畑への除草剤散布に使用―など)を中心にしていた(この装備供与は麻薬取締局を擁するアメリカ国務省が主体となって行われており、当時のネ・ウィン政権に不信感を抱くCIAは反発していたとされる)。1990年代以降はアメリカからの支援は断絶状態となった。 代わって台頭しつつあるのが中国やロシア、インド、ベトナム、イスラエル、シンガポール(制裁によって直接製造国からサポートできなくなった旧西側製装備の修繕など)であり、J-7やQ-5、MiG-29等の導入はその表れである。さらにラングーン事件以降冷え切っていた北朝鮮との関係が1996年頃から軍事・政治面で改善した結果、野砲・ロケット砲などの武器購入や基地建設の技術支援交流や軍人交流訪問等が行われている。その一方で、中国はワ州連合軍などのミャンマー・中国国境に展開する反政府勢力への支援も継続しているといわれている。 また、外交関係が不安定であることから、古くから軍備の国産化が進んでいる。既に自動小銃(ガリルやH&K G3等)や弾薬、暴徒鎮圧用の軽装甲車などは国産での調達が可能と言われる。海軍が保有しているコルベットもミャンマーにて建造されたものである。 ミャンマー軍のヘルメットは迷彩柄で、形はアメリカ軍がかつて採用していたPASGTヘルメットで(通称フリッツヘルメット。同型のヘルメットを軍で使用している中国からの輸入であると考えられる)あり、ヘルメットの中央部に白い五角星があしらわれている。 少数民族の武装組織2009年現在も、カチン独立機構 (KIO) の軍事部門であるカチン独立軍 (KIA)、旧ビルマ共産党の流れを汲むワ州連合軍 (UWSA)、カレン民族同盟の軍事部門であるカレン民族解放軍、シャン州軍 (SSA)、コーカン族の武装組織であるミャンマー民族民主同盟軍 (MNDAA) などがあり、なかにはカレン民族解放軍の分派民主カレン仏教徒軍 (DKBA) のように親政府の武装組織まで存在する(その後、反政府に転向。同項参照)。 1990年代初頭にビルマ共産党が内紛で崩壊した事により、キン・ニュンが同党の後身組織であるワ州連合軍との停戦を成立させたのを皮切りに、カレン民族解放軍や(都市部での学生運動を端緒としており他の武装組織と異なるが、弾圧により地下組織化した)全ビルマ学生連盟 (ABFSU) などを除いてほとんどの組織は政府軍との停戦に応じている。ただし、この停戦は投降には程遠く、いずれの組織も武装解除にはほとんど応じず独自の解放区を維持し続けている。政府側は解放区における武装組織の既得権益を追認し、その一方で解放区内に政府軍や警察部隊を進駐させるなど「飴とムチ」の構えをとっている。特にUWSAやSSA、MNDAAは麻薬製造を続けている一方で、国内ではホテルや銀行などの合法ビジネスも行なっており、現在でも中国などから入手した高度な装備を保有している。UWSAなどシャン州の武装組織は中国・ミャンマー国境の軍事的に重要な地域に支配地域が存在しており、経済封鎖で中国偏重になっているミャンマー経済の生命線を握っているともいわれる。 これらの武装組織は現在も停戦を続行しているものの、軍事政権内で和平推進派であったキン・ニュン派の失脚や停戦条件である自治拡大が実行されていない事などから反発を強めているともされている。とくに最近では和平推進派が軍事政権内で減退した事から強硬派が強まっているとされ、2009年には麻薬捜査を発端としてMNDAAとミャンマー政府軍が交戦状態に発展した。このほかの各民族の私兵にも自主的に解散もしくは国軍指揮下の国境警備隊へ編入するかを要求したが、殆どの少数民族武装組織から拒否されて頓挫した。2013年1月現在、国軍とカチン独立軍は交戦状態にあり、カチン州では難民が発生している。 かつて麻薬王として知られたクン・サ率いるモン・タイ軍は自主的に解体されたものの、同軍の将兵はUWSAなどに流れていった。旧ビルマ共産党は同項目に書かれている経緯から分裂して消滅しており、中国国民党の残党も高齢化や国際支援の消滅、クン・サなどの分派の登場などから既に過去の存在となっている。 核兵器開発疑惑→「ミャンマー連邦の大量破壊兵器」も参照
2010年6月4日、中東の衛星テレビ局アル・ジャジーラがミャンマー軍政が核兵器開発に着手した証拠があると報道した[87][88]。また、オーストラリアの新聞『シドニー・モーニング・ヘラルド』によると、ミャンマーは北朝鮮の協力を得て、2014年までに原子爆弾を保有することを目指しているという。2010年12月9日には英紙「ガーディアン」が、軍政がミャンマー丘陵地帯で秘密地下核施設の建設をしているとの目撃情報がアメリカに伝えられ、また、北朝鮮技術者を見たという目撃情報も寄せられていたことが内部告発サイト「ウィキリークス」に掲載された米外交公電により明らかになったと報道した[89]。 地理→詳細は「ミャンマーの地理」を参照
ミャンマーは北緯10度から28度の間に位置し、南北に伸びる長い国土が特徴である。陸では中国、タイ、ラオス、インド、バングラデシュと国境を接し、境界線の総延長距離は約4,600kmに達する。最高地点は北部国境のカカボラジ山 (海抜5881m)。マレー半島の北西部をタイと分かつ形で約400km南方に国土が延びる。 海側はアンダマン海とベンガル湾に面し、海岸線の全長は約2,000kmである。両海の境となるアンダマン諸島とニコバル諸島はどちらもインド領である。 気候国土の大半が熱帯または亜熱帯に属するが、気温や降水量は地域による差異が大きい。ベンガル湾やアンダマン海の沿海部は年間降水量が5000mmを越える有数の多雨地域で、ケッペンの気候分類によれば典型的な熱帯モンスーン気候 (Am) を示す。マンダレーやバガンが位置する内陸部は熱帯サバナ気候 (Aw) で、年間降水量が1000mmを下回る地域がある。またシャン州、カチン州やチン州といった山岳地帯は、温暖冬期少雨気候 (Cfw) に分類される。最寒月の平均気温が18度を下回る地域があり一部では降雪も見られる。 水理ミャンマーは国全体に多くの河川が行き渡っている。国土の中央をエーヤワディー川が縦断しており、河口付近は広大なデルタ地帯を形成している。主要な河川としては、他にサルウィン川やチンドウィン川等がある。 古くから水上輸送に利用されてきたため、都市の発展と関係が深い。雨季を中心に高潮・洪水の被害が発生することが多い。 自然災害ミャンマーでは2008年、大型のサイクロンに襲われた。過去にもそのような事例があったが、今回のサイクロンは、社会基盤が脆弱だったこともあり、これまで以上に被害が拡大した。 →「サイクロン・ナルギス」も参照
地方行政区分→詳細は「ミャンマーの行政区画」を参照
7つの地方域(タイン・データー・ジー)と7つの州(ピーネー)に分かれる。地方域は、主にビルマ族が多く居住する地域の行政区分。州は、ビルマ族以外の少数民族が多く居住する地域となっている。
通俗的に、上ビルマ (2,5,6) と下ビルマ (1,3,4,7) に区分される。
主要都市→詳細は「ミャンマーの都市の一覧」を参照
軍事政権が変更した町の名称軍事政権は1991年にビルマをミャンマーに変更し、それと同時に町の名称などを1000以上変更した。ここでは軍事政権が変えた町の名称を紹介する[注 9]。
経済→詳細は「ミャンマーの経済」を参照
IMFの統計によると、2017年のミャンマーのGDPは673億ドル。一人当たりのGDPは推定1,278ドルであり[91]、国連の基準では「後発開発途上国」と位置づけられている[92]。 産業主要農産物は米で、農地の60%を水田が占める。国際米作研究所が1966年から30年間にわたり、52種の米を全土で試験栽培し、収量向上に貢献した。 →「ミャンマーの農業」も参照
また、宝石の産出量も多く、世界のルビーの9割を産出し、タイがそのほとんどを購入している。サファイアも品質の高さで知られる。しかし、採掘はほとんどが国営で、労働環境の悪さから欧米などの人権団体は不買を呼びかけている。 ミャンマー政府やミャンマー観光連盟は、外国人観光客の誘致に力を入れている。入国に必要な観光ビザの免除対象は、ASEAN諸国(マレーシアを除く)に加えて、2018年10月から日本と大韓民国も1年の試行措置として追加された。一方で、ロヒンギャ問題での国際的な批判が支障になっている[93]。 →「ミャンマーの観光」も参照
経済史ビルマはかつて東南アジア有数の大国であり、イギリス統治下においても東南アジアで最も豊かな地域の一つであった。チークなど木材をはじめ天然資源が豊富で、石油の生産・輸出も盛んに行われていた。また人的資源も優れており、識字率は高く、独立後は東南アジアでも早く成長軌道に乗るだろうと考えられていた。1952年に経済開発計画が立案されたが、内乱や外貨事情の悪化から4年ほどで破棄される結果に終わった。 1962年から1988年まで、ネ・ウィン軍事政権はビルマ式社会主義という国家基本要綱に基づき、国有企業主導の統制経済による開発を行なった。この間、主要産業の企業・貿易は国家の管理下に置かれ、土地も国有化された。また、工業化政策によって1960 - 1970年代において、工業は一応の発展を遂げた。しかし、1980年代に至ってもGDPで工業が占める割合は10%程度で、依然農業が主産業の座を占めていた。また、鎖国的な経済体制によって、最貧国と認定される程にビルマ経済は著しく停滞し、他のアジア諸国と大きな差をつけられる結果となった。 1988年のソウ・マウンによる軍事クーデター後、ビルマ援助国の大部分が経済援助を凍結した為、国家法秩序回復評議会 (SLORC) は社会主義計画経済の放棄と自由市場経済体制への転換を決めた。SLORCは、豊富な天然資源と安価な労働力を基とした民間企業主導型の輸出指向型の政策を打ち出し、外国人による投資の大幅な許容、近隣諸国との国境貿易合法化や国営企業の民営化等、市場経済改革が実施された。 21世紀初頭には工業部門が飛躍的に成長し、工業化が進展しているように見えた。しかし、これは、天然資源開発中心の国有企業主導型の工業開発によるものであり、民間製造業主導型の工業開発ではない。天然資源開発は急速な早さで環境を破壊している。また、天然資源採掘地域においては、強制労働・強制移住などの人権侵害が行われているという事実がある。 以上の事実から、欧米諸国はミャンマー製品の輸入禁止や、新規海外直接投資禁止などの経済制裁を行った。特にアメリカのミャンマー製品輸入禁止と送金禁止はミャンマー経済に大きな影響を与えた。近年、民間の経済発展を見越したヤンゴン証券取引所が、日本の金融庁や大和総研、日本取引所グループの支援で発足。2016年3月25日、取引を開始した。 2021年より、軍系企業グループ業であるen:Myanma Economic Holdings Limited(ミャンマー経済ホールディングス(MEHL))と、en:Myanmar Economic Corporation(ミャンマー経済公社(MEC))は、米国により制裁中[94]。 日本との貿易欧米諸国が軍事政権下のミャンマー製製品を輸入禁止にしてきたのに対し、日本は特に輸入規制などは行わず、日本はミャンマーにおける製品輸出先の5.65%(2009年)を占めた[95]。ミャンマー製のカジュアル衣類なども日本国内で販売されている。 しかし、日本貿易振興機構の資料によると、民政移管の2010年前後の時点でミャンマーに進出している企業は、中国が約27000社、タイが約1300社に比べ、日本はわずか50社に過ぎなかった。この背景には、ミャンマーに経済制裁を科していたアメリカの存在があり、アメリカとビジネスをしている企業は、アメリカでどのような扱いを受けるかを恐れ、ミャンマーに進出したくてもできない状態であるという[96]。 ただ、中国の賃金水準上昇と、チャイナ・リスクの存在が日本企業に広く認識されるようになり、米国向け輸出品が多く日本企業には不利なベトナムや、日本企業の誘致に消極的なカンボジアやバングラデシュなどの代わりに、「アジア最後の経済未開拓市場」との呼び声も高いミャンマーに対する日本の注目が2010年前後から集まった。ベトナムの約3分の1(ベトナムの賃金は中国の約6割)の賃金で従業員を雇え、中国と比較すると労働力の安さが特段際立っていた。しかしながら、ハエが飛び回るような不衛生な食品工場が多数存在している点や、労働環境の苛酷さや児童労働の存在、そして何より、ミャンマー独特の政治的事情などの課題も多かった。だが、2010年の総選挙で形式的ながら民政移管を果たし、2011年に就任したテイン・セイン大統領が経済開放を進めたことにより、ミャンマー経済を取り巻く環境は大幅に改善された[97]。 2012年に入って以降、アメリカが民主化を評価し、ミャンマーへの政策を改める見通しが出始めており、これまでアメリカの顔色を伺って現地進出したくてもできなかった日本企業にとっては明るい兆しと言える。また、ミャンマー側にとっても経済発展は悪い話ではないし、ベトナム、カンボジア、バングラデシュに大きく遅れをとったが、グローバリゼーションが進む21世紀の世界において、安いコストで衣類などの軽工業品を生産できることは、企業側にとっては良いビジネスになりうる。また、結果として多くのミャンマー国民の雇用を生み出すという点でも重要である。 2014年10月1日、ミャンマー政府が2011年の民主化後初となる、外銀6ヵ国9行に支店開設の仮認可を交付したと発表[98]。日本の銀行ではみずほ銀行、三菱東京UFJ銀行、三井住友銀行のメガバンク3行が仮認可を取得している。その後、2015年4月2日に三菱東京UFJ銀行、オーバーシー・チャイニーズ銀行、三井住友銀行の3行が正式認可を取得し、2015年4月22日に三菱東京UFJ銀行が、同23日にオーバーシー・チャイニーズ銀行と三井住友銀行がそれぞれ支店を開業した[99]。 2021年現在、ミャンマーは、東南アジアにおいて日本の最も有力な投資先の一つであり、日本による経済開発が行われている[79]。 交通→詳細は「ミャンマーの交通」を参照
道路・鉄道・水運とも南北方向には発達しているが、河川を跨ぐ東西間の交通は整備されていない。 道路→詳細は「ビルマ公路」および「インド-ミャンマー-タイ三国間高速道路」を参照
→「ミャンマー道路交通局」も参照
鉄道→詳細は「ミャンマーの鉄道」を参照
鉄道車両は日本から多く輸出されている。 空港→詳細は「ミャンマーの空港の一覧」を参照
国民人口→詳細は「ミャンマーの人口統計」を参照
2014年春、31年ぶりに国勢調査が行われた。3月30日時点での人口は51,419,420人で、前回に行われた1983年国勢調査値(31,124,908人)から二千万人増えていた。 民族→「タインインダー」も参照 ミャンマーは、総人口の7割を占めるビルマ人と、残りの3割を占める少数民族から構成される多民族国家である[102]。その民族構成について、信頼できる統計資料は存在しないものの、マーティン・スミス(Martin Smith)は同国の主要民族の人口を以下のように推計している[102]。
ミャンマーの7つの有力少数民族は、それぞれ自らの州を有している。1948年のビルマ連邦独立時にはカチン州・カレンニー州・シャン州およびチン特別区(1974年よりチン州)が設けられ、1951年にカレン州、1974年にモン州・ラカイン州が新設された。ミャンマー政府は1990年代より、ビルマ人を含めた「8大民族」と、その下位分類である135の民族グループを自国の原住民族とみなしているものの、その分類基準は統一されたものではなく、疑義も多い[102][103]。『シャン・ヘラルド』は、はこの分類を再検討し、ミャンマー政府が認定する135の民族サブグループには実際には同一民族の別氏族などが重複して数え上げられているなどとして、実際にはこの分類は59民族を列挙するものであること、タマン人など、同分類から漏れている民族も存在することなどを指摘している[104]。 言語→詳細は「ミャンマーの言語」を参照
エスノローグは、ミャンマーで話されている言語として115言語を挙げ、うち93語がシナ・チベット語族(ビルマ語、カレン諸語、ジンポー語など)、13語がオーストロアジア語族(モン語、パラウン語、ワ語など)、6語がタイ・カダイ語族(シャン語など)、2語がインド・ヨーロッパ語族(ロヒンギャ語、チャクマ語)、1語がオーストロネシア語族(モーケン語)に属するとしている(残りの1語はビルマ手話)[105]。ビルマ語やパーリ語、少数言語の多くの表記にはモン-ビルマ文字が使われる。ビルマ語やパーリ語、少数言語の多くの表記にはモン-ビルマ文字が使われる[106]。 公用語はビルマ語であり、多数派であるビルマ族を中心に母語として3300万人が、第二言語としては同国の少数民族を中心におよそ1000万人が話す[107]。しかし、カレン民族同盟など、少数民族を主体とする武装組織のうち一部の支配下にある地域では、ビルマ語の教育は行われていないという[108]。 人名一般的に姓は持たない[109][110]。必要な時には両親いずれかの名と自分の名が併用される。便宜的に自分の名の一部を姓として使用する者もいる[111]。また、名を付ける際には、その子が生まれた曜日によって頭文字を決める。命名は、ビルマの七曜制や月の名前、土地の名前等から付けられることが多く、このため同じ名前を持つ者が多い。 従来はタン、ヌのような1語やバー・モウなどの2語の名がほとんどであったが、独立後からアウン・サン・スー・チーのような4語や5語の名前が見られるようになった。アウン・サン・スー・チーのように、子の名前に父祖の名前を組み込むこともある。 名前を表記する場合は、語の間に空間や「・」を入れて表記するが、あくまで便宜的なもので発音はつなげて行う[112]。「アウン・サン・スー・チー」を例にとれば、区切りを意識せずに「アウンサンスーチー」と1語として呼称することが一般的であり、一部の華僑のように英語名がない限り一部だけを読むことはない。 外国との交渉(旅券等の発行や移住時に姓や氏の記入を求められるような状況)で、便宜的に敬称や尊称や謙称を使って、苗字とする場合もある。男性敬称のウー(ウ)や女性敬称のドオ(ドー)が用いられ、国連事務総長を務めたウ・タントなどがその例である。ビルマ語でのウーは英語のミスターなどと違い、自称もされる[113]。 なお、姓を持たないため、結婚しても人名が変わることはない(姓の存在を前提とする夫婦別姓とは異なる)[111]。 宗教→詳細は「ミャンマーの宗教」を参照 宗教は多様であるが、住民の大多数は仏教徒である。2014年の国勢調査によれば国民の9割近くは仏教を信仰し[114]、およそ50万の僧、7万5000の尼を有する[115] 。仏教徒の大半は上座部仏教に帰依している[116]。
一方、キリスト教は国民のおよそ6%が信仰し[117]、欧米からの宣教師の活動のためチン族、カチン族、カレン族(カレン二―族含む)などの少数民族を中心に広まった[118]。チン州で多数派を占めるほか、カチン州、カヤー(カレン二―)州でも3割以上が信仰する[114]。うちおよそ3分の2がプロテスタントであり[119]、中でもバプテスト派が多い。 イスラームは国民の4%が信仰し、ロヒンギャなどが多いラカイン州では人口の3分の1以上がムスリムである[114]。ムスリムへの差別はロヒンギャへの民族浄化にとどまらず、民族を問わず国民としての身分証を与えられないなどの困難に直面している[120]。 また、ナッ信仰などの民俗宗教を実践する者もおり、仏教などと並行して信じられている[121]。 →「ミャンマーの民間信仰」も参照
教育→詳細は「ミャンマーの教育」を参照
ミャンマーの教育は、時代によって、体制の変更に大きく影響を受けている。2011年の民政移管以降は、教育の分野でも民主化・自由化が進んでいたが、2021年クーデターにより先行きは不透明となった。 →「2014年ミャンマー国家教育法」も参照
保健→詳細は「ミャンマーの保健」を参照
→「ミャンマー・スポーツ青年省」も参照
→「2015年ミャンマー国立体育祭」も参照
治安→詳細は「ミャンマーにおける犯罪」を参照
2022年02月28日時点で外務省は、「ミャンマーの犯罪情勢は、ミャンマー治安当局の公開情報によれば近年、各種犯罪が増加傾向にありましたが、2021年2月のクーデター以降、政情不安や経済悪化、また国軍と民主派の衝突により治安当局が認知している以上の犯罪が発生している状況であり、各種メディアによれば、強盗、窃盗、傷害、強制性交といった犯罪が多数発生しているとされています。」としている[122]。 また、ミャンマーは世界最大のメタンフェタミン生産・輸出国であり、アフガニスタンに次ぐ世界第2位のアヘンとヘロインの生産国であり、過去から違法薬物取引における拠点の一つとされている問題点が今も解消されず終いとなっている。 →「ミャンマーにおけるアヘン生産」および「黄金の三角地帯」も参照
人権→詳細は「ミャンマーにおける人権」を参照
→「インディン虐殺」も参照
マスコミ→詳細は「ミャンマーのメディア」を参照
2021年2月のクーデター後、新政権はマスメディアならびジャーナリストへの脅迫、投獄に対する制限を強化している[123][124][125]。
→「ミャンマーにおける検閲」および「ミャンマーにおける報道の自由」も参照
文化→詳細は「ミャンマーの文化」を参照
食文化→詳細は「ビルマ料理」を参照
文学→詳細は「ビルマ文学」を参照
→「ミャンマーの作家の一覧」も参照
音楽→詳細は「ミャンマーの音楽」を参照
伝統音楽・楽器としては、『ビルマの竪琴』に登場した「サウン・ガウ」が日本では知られている。 西洋音楽を演奏する国立交響楽団が2001年に設立された。政治情勢から活動は2004年に一時停止状態となり、2012年に再開。日本人指揮者の山本祐ノ介らが指導に当たっている[126]。 美術→詳細は「ミャンマーの美術」を参照
ミャンマーにおける芸術は、古来からムドラ、ジャータカ、菩薩など仏教の中心的な要素を反映したものが多い[127]。 ミャンマーの芸術家は同国政府の干渉と検閲を受けており、その影響からミャンマーにおける芸術の発展は今も妨げられた状況にある[128][129]。 現代のミャンマーを代表する画家には、シット・ニェイン・アイやティン・リンが挙げられる。
→「東洋美術史」および「ミャンマーのビジュアルアーティストの一覧」も参照
→「ヤンゴンギャラリー」も参照
映画→詳細は「ミャンマーの映画」を参照
写真ミャンマーを題材とした作品一覧 衣料・化粧品→詳細は「ミャンマーの衣装」を参照
民族衣装としてロンジーがある。化粧品は「タナカ」が多く使われている。 建築→詳細は「ミャンマーの建築」を参照
ミャンマーの建築には、近隣諸国や西洋諸国の影響と国そのものの近代化を反映した建築様式が含まれている。 国内の主な建物には仏教由来の仏塔や寺院、パゴダ、イギリス植民地時代の建築物があり、最も有名な建築物にはシュエダゴン・パゴダが挙げられる。
世界遺産→詳細は「ミャンマーの世界遺産」を参照
ミャンマー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。 祝祭日→詳細は「ミャンマーの祝日」を参照
スポーツ→詳細は「ミャンマーのスポーツ」を参照
→「オリンピックのミャンマー選手団」も参照
サッカー→詳細は「ミャンマーのサッカー」を参照
ミャンマーではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2009年にプロサッカーリーグのミャンマー・ナショナルリーグが創設された。2012年には日本のJリーグとパートナーシップ協定を締結している[133]。ミャンマーサッカー連盟[注 10]によって構成されるサッカーミャンマー代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。AFCアジアカップでは、ビルマ代表時代に1968年大会で準優勝の成績を収めている。 著名な出身者→詳細は「Category:ミャンマーの人物」を参照
→「在日ミャンマー人」も参照
脚注注釈
出典
関連文献
関連項目外部リンク
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