マッハ文朱
マッハ 文朱(マッハ ふみあけ、1959年〈昭和34年〉3月3日[1][2] - )は、日本で活躍する女優[2][1]・タレント[2]・歌手[1]。元女子プロレスラー。熊本県出身[1][2]。身長180cm(1975年7月)[3]。血液型B型[1][2]。 来歴『スター誕生!』と山口百恵元々歌手志望で、1972年、13歳で『スター誕生!』に出場し、第5回決戦大会(本戦合格者が出場する、芸能事務所・レコード会社参加の最終審査)まで進出したが、スカウトのプラカードは挙がらなかった。 同決戦大会では、後にトップアイドルとなる山口百恵と一緒になった。山口とは同い年で、同大会では偶然にも共に牧葉ユミの『回転木馬』を歌唱し[4]、山口は準優勝したがマッハはスカウトされなかった。このことから後に「山口百恵に敗れたマッハ」という形容で呼ばれるようになった(なおスター誕生は「勝ち抜き戦」ではなく審査は個別に行われるもので、直接対決に敗れたのではなく20社のスカウトが集中した山口との対比を指した比喩である)。 ちなみに本番前、マッハは山口から「テレビ局ってカッコいい人がいっぱいいるね。もし受からなくてもさ、この中から彼氏を見つけられるといいよね」と話しかけられた。山口の発言は本心かお互いの緊張をほぐすためだったかは不明だが、ざっくばらんで度胸のある彼女の発想に驚かされたという[4]。 プロレスラーへ1974年、15歳で叔父がゴルフをやっていた関係でゴルファーになることが決まっていたが、「女子プロレスラー募集」という週刊誌の小さい募集記事を見つけてきた姉に勧められ、一転して全日本女子プロレスに入門(結果的に芸能界に縁のあった者や志望者がプロレスに入門するというケースのはしりとなり、ミミ萩原、アストレスなどがそれに続いた)[5]。 リングネーム「マッハ文朱」は、巴ゆき子の命名によるものであった。「タイグリスあかね」というリングネームに決まっていたが、マッハの強い希望で「マッハ文朱」になった。「マッハ」は何をするのも速いことから、「文」は本名から、「朱」は母におねだりして唯一買ってもらってよく着ていたセーターの色から[6]。 プロレスラーを目指すきっかけ2011年10月1日付の『朝日新聞』の特集「うたの旅人」におけるインタビューで文朱はプロレス転身について、『スター誕生!』決戦大会後に番組プロデューサーから「いまはかわいい一辺倒のアイドル全盛だから、君は大人っぽくて中途半端だ」と言われたことから、体格と運動神経を生かしてスポーツの路に進むしかないと見極めがついた、と語っている。 別の記事によると、決戦大会終了後マッハが落ち込んで控室に戻ると、チーフ・プロデューサーの池田文雄から「君はすごくいいものを持っている。ただ、身長が高いから“かわいい子路線”では売りづらい。13歳だから(マッハと似たようなタイプの歌手である)和田アキ子のような迫力もまだ出せない。だから審査員の先生たちは皆、どう評価したらいいか考えあぐねたんだと思う」と優しく説明してくれたという[4]。 その帰り道、初めて自分の身体の大きさを否定的に捉えたが、「ならばこの大きな身体を生かそう」と考えを切り替えたことで、その後女子プロレスラーの道を目指すことになる。マッハは後年「合格しなかったけど私の人生は『スター誕生!』から始まった。レスラーになるきっかけをくださったプロデューサーの池田さんの言葉に感謝しています」と語っている[4]。 女子プロでの活躍長身、ルックスの良さ、もって生まれたスター性、前述のごとく歌も歌えることなどからすぐに注目され、旗揚げ後苦難が続いた同団体初のアイドルスター選手となり、従来の女子プロレスのイメージを変え、テレビでの人気も上がり、同団体の経営が確立した[5]。圧倒的な体格・体力だけでなく格闘技歴があったため、相手選手を壊さないように気をつけながらリングに上がっていたと本人は発言している。 1975年3月19日、WWWA世界シングル王座(第17代)獲得。同年4月15日、赤城マリ子とのタッグでWWWA世界タッグ王座(第61代)獲得。選手として強いだけではなく、プロの歌手としてレコードも出しそれをヒットさせ、試合後にリングで歌を披露するなど、それまでの女子プロレスラーにはなかった明るいアイドル性も備えており、女性ファンも多数獲得した[5]。 過去に『スター誕生!』決戦大会出場経験もあったことから、ほどなくしてレコード会社から誘われて歌手デビューし、本人は「自分のキャラクターが認められたようで嬉しかった」としている。歌手デビューシングルの『花を咲かそう』は、各試合会場で事前に用意したレコード500枚が毎回完売したという。これを受けて後日、レコード大賞新人賞の話や紅白歌合戦出場の話もあったそうだが、当時マッハは年間250試合戦っており、女子プロ側の「興行の方が大切」との理由により彼女にこれらの話が伝わることなく断られてしまい、マッハ自身は後になってその話を聞いたという[4]。最終的に『花を咲かそう』は40万枚のヒットになった[7]。マッハの活躍で全日本女子プロレスの隆盛が始まり、後のビューティ・ペアやクラッシュギャルズの雛形的な存在だったと言える。同年、東映映画『華麗なる追跡』で映画デビューも果たした。 レスラー引退後1976年、「マッハ文朱」を名乗ってからわずか2年8ヵ月でプロレスラーを引退。芸能活動を開始する[5]。映画『トラック野郎・天下御免』(シリーズ4作目)に序盤のシーンで一番星号とワッパ勝負をする女ミキサー運転手として出演、菅原文太を投げ飛ばす。 1977年に東京12チャンネルと1年間に5試合限定の契約をしてリング復帰。全日本女子プロレス時代にちゃんとした引退試合ができなかったため、お礼や感謝の気持ちを伝えたいとの意向により、ファンを抽選で無料招待して異種格闘技戦を開催した。 空手初段であり、大山倍達の指導を受けた経験を持つ。空手の他に、柔道初段、合気道3段も取得している。 1984年、25歳で芸能活動を休業し、ニューヨークのハンター大学に1年間、語学留学。ブロードウェイに通いダンスを学ぶ。28歳で高校2年次に編入学、30歳で高校卒業(通信教育)。1989年から1992年にかけて、ロサンゼルスのペパーダイン大学にて健康心理学、南カリフォルニア大学にて経済学を学ぶ。1993年、大学関連の知人のホームパーティーで知り合った男性と結婚。1994年2月に長女、1995年8月に次女を共に台湾で出産。のちにアメリカに移住、2004年から10年ほどスポーツバーを経営。 2013年7月18日のDDT両国国技館大会にて赤井沙希がデビューすると知り、帰国して観戦した[8]。10月には20年振りに日本で本格的に芸能活動を再開することを雑誌『女性自身』のインタビュー[要文献特定詳細情報]で語り、2014年に復帰。活動再開後は生島企画室に所属[1]。2020年7月現在、毒蝮三太夫が所属する、まむしプロダクションと業務提携をしている[9]。 人物長女は元宝塚歌劇団星組男役の桃堂純[10]。アメリカ在住の次女は2009年にジュニア・オレンジ・ボウルで優勝したテニスプレーヤーのユキ・クリスティーナ・チアンである[11]。 出演映画
テレビドラマ
クイズ番組
バラエティ
その他のテレビ番組
ラジオ番組CM舞台ディスコグラフィーシングル
アルバム
タイトル歴
得意技
著書
脚注注釈出典
外部リンク
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