ビクトリー船
ビクトリー船(ビクトリーせん、英語: Victory ship)は、第二次世界大戦中ドイツのUボートの攻撃によって失われた船を代替するために北アメリカの造船所で大量に建造された貨物船の型である。これ以前に建造されていたリバティ船に比べてより新しい設計で、いくらか大型になり、より強力な蒸気タービンを備えて、Uボートにとって攻撃するのが難しい高速輸送船団に加入できるよう、より高速を発揮できるようになっていた。合計で531隻のビクトリー船が建造された[2][3]。 VC2設計合衆国戦時海運管理局が1942年2月に設立されて最初に行ったことの一つとして、後にビクトリー級として知られることになる船の設計を依頼するということがあった。当初はEC2-S-AP1という記号が与えられており、EC2はEmergency Cargo type 2(積載時水線長400フィートから450フィート、120メートルから140メートル)を、Sは蒸気タービン推進を、AP1は船尾1軸スクリュープロペラを意味した。EC2-S-C1はリバティ船の設計であった。1943年4月28日にビクトリー船という名前が公式に採用され、記号はVC2-S-AP1と改められた。こうした船は、緊急造船計画の下で建造された[1]。 ビクトリー船の設計は、大量建造に成功していたリバティ船の拡張であった。ビクトリー船はリバティ船よりいくらか大きく、全長は14フィート(4.3メートル)長い455フィート(139メートル)、幅は6フィート(1.8メートル)広い62フィート(19メートル)、積載時喫水は1フィート深く28フィート(8.5メートル)であった[1]。排水量トンの増加量は1,000トンに満たず、15,200トンであった。船首楼を高くし、より洗練された船殻設計により高い速度を出せるようになっており、リバティ船とはかなり異なった外観となっていた。 Uボートの攻撃に対する脆弱性を減らすため、ビクトリー船はリバティ船より4ノットから6ノット速い、15ノットから17ノット(28 - 31 km/h)を出せるようになっており、航続距離も長くなっていた。速度の向上は、より新しく効率的な機関によって達成されていた。リバティ船には2,500馬力(1,900キロワット)三段膨張蒸気機関が使われていたのに対し、ビクトリー船ではレンツ式レシプロ蒸気機関、蒸気タービンまたはディーゼルエンジンのいずれかを用いるように設計されており、6,000馬力から8,500馬力(4,500キロワットから6,300キロワット)を出した。ほとんどのビクトリー船は、戦争前期には供給が逼迫していて軍艦用に割り当てられていた蒸気タービンを採用していた。全船が石油燃焼ボイラーを装備したが、少数のカナダの船は石炭庫と石油タンクの双方を装備して完成した。他の改善点としては、蒸気駆動の補機を廃して電気駆動としたことが挙げられる。 リバティ船の何隻かで発生した船体の破壊の問題を避けるため、骨格部材の間隔を6インチ(150ミリメートル)広げて36インチ(910ミリメートル)とし、船の剛性を下げた。船体はリベットではなく溶接で組み立てられていた[4]。 VC2-S-AP2型、VC2-S-AP3型およびVC2-M-AP4型には、対潜水艦用および対水上艦艇用として1門のMk 12 5インチ砲が船尾に装備され、また対航空機用として1門のMk 22 3インチ砲と8丁のエリコンKA 20 mm 機関砲が船首に装備されていた。こうした武装にはアメリカ合衆国海軍武装警備隊[訳語疑問点]の要員が配置されていた。VC2-S-AP5型のハスケル級攻撃輸送艦は5インチ砲、4連装ボフォース 60口径40mm機関砲1門、2連装ボフォース 40mm機関砲4門、単装20mm機関砲10門を装備していた。ハスケル級にはアメリカ合衆国海軍の要員のみが乗り組んでいた。 ビクトリー船は、当時の貨物船としては船倉間の容積の比率が優れていたことで特筆される。ビクトリー船には5つの船倉があり、第1、第2、第5船倉はそれぞれ70,400、76,700、69,500立方フィートの容積があった。第3、第4船倉はそれぞれ136,100、100,300立方フィートの容積があった[5]。ビクトリー船にはマスト、ブーム、デリッククレーンを備えており、必要であれば岸壁側のクレーンやガントリーがなくても自力で貨物を積み降ろしすることができた[6]。 建造最初のビクトリー船はユナイテッド・ビクトリーで、オレゴン造船において1944年1月12日に着工し、2月28日に完成して、その1か月後に処女航海を行った。アメリカ向けの船は、船名に「ビクトリー」を含む単語を使っていた。イギリス向け、カナダ向けはそれぞれ「フォート」および「パーク」を含んでいた。最初のユナイテッド・ビクトリーの後、34隻は連合国の国名にちなんで名づけられ、さらにその次の218隻はアメリカ合衆国の都市にちなんで名づけられ、その次の150隻は教育機関の名前にちなんで名づけられ、そして残りは様々な名前が与えられた。AP5型攻撃輸送艦に関しては、「ビクトリー」を含まず、アメリカ合衆国の郡の名前が付けられているが、1隻のみフランクリン・ルーズベルト大統領の末期の個人秘書であったマービン・マッキンタイヤにちなんでマービン・H・マッキンタイヤと名付けられた。 当初の就役はゆっくりで、1944年5月までに就役したのは15隻のみであったが、戦争終結までには531隻が建造された。管理局は、その後の132隻の発注をキャンセルしたが、アルコア汽船会社向けに1946年に3隻が建造されて、アメリカ合衆国での総建造数は534隻となった。
戦時建造中、414隻が一般貨物船で、117隻が攻撃輸送艦であった[1]。最初のビクトリー船が登場した時点で大西洋の戦いはほぼ連合国の勝利に帰していたので、Uボートによって撃沈された船はなかった。3隻が1945年4月に日本の神風特別攻撃隊により撃沈されている。 第二次世界大戦後、マジック・カーペット作戦でアメリカ合衆国の将兵を帰国させるために、多くのビクトリー船が軍隊輸送船に改造された。合計で97隻のビクトリー船が、1隻あたり1,600人の将兵を運べるように改造された。改造にあたって、1つの寝床を複数人で交代使用するベッドまたはハンモックを縦3段に重ねたものと、食堂、運動室などが船倉にしつらえられた[7]。 36隻ほどのビクトリー船が運用を続け、朝鮮戦争にも用いられ、またベトナム戦争では100隻のビクトリー船が用いられた。多くの船は売却されて商用の貨物船となり、わずかな船が旅客船となった。一部は合衆国海軍予備艦艦隊として係留され、その後解体されるか再使用された。多くの船は戦後改造され、何年にもわたって様々な用途に用いられた。1隻のVC2-M-AP4型ディーゼルエンジン搭載のエモリー・ビクトリーは、インディアン事務局によってノース・スターIIIとしてアラスカ水域で運用された[1]。AP3型のサウス・ベンド・ビクトリーおよびタスキーギー・ビクトリーは、1957年から1958年にかけて海洋観測船のバウディッチおよびダットンにそれぞれ改造された[1]。ダットンは、1966年に起きたパロマレス米軍機墜落事故で行方不明になった水素爆弾の探索作業に用いられた[8]。 1959年から、予備艦隊から数隻の船を抽出して、アメリカ航空宇宙局 (NASA) 向けの装備をおこなった。例として、キングスポート・ビクトリーはキングスポートと改名されて、世界で最初の衛星通信船に改造された。またハイチ・ビクトリーはロングビューと改称され、初めて軌道から地球に戻ってきた人工物であるディスカバラー13号のノーズコーンを1960年8月11日に回収した。シェバーンは1969年から1970年にかけて距離計測船のレンジ・センティネルに改造され、弾道ミサイル試験の軌道に沿った追跡を行った[1]。 4隻のビクトリー船が、展開中の潜水母艦へ魚雷、ポセイドンミサイル、パッケージ化された石油、予備部品を運搬する弾道ミサイル貨物船となった[1]。
1960年代にはアメリカ海軍によって2隻のビクトリー船が再稼働され、技術調査艦に改造され、船体分類記号はAGTRとされた。イラン・ビクトリーがベルモントとなり、シモンズ・ビクトリーがリバティーとなった。リバティーは1967年6月にイスラエル軍から攻撃を受けて大きく損傷し(リバティー号事件)、その後退役して海軍籍から除籍された。ベルモントは1970年に退役した。バトンルージュ・ビクトリーは1966年8月に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の設置した機雷によってメコン川デルタ地帯に沈められ、一時的にサイゴンへの水路を塞いだ[1]。 造船所ほとんどのビクトリー船は、第二次世界大戦においてリバティ船、ビクトリー船やその他の船を建造するために設置された、西海岸にある6か所の造船所およびボルチモアの緊急造船所で建造された。ビクトリー船はこうした造船所にある能力の小さなクレーンで組み立てられるように設計された[1]。一部の船はイギリスやカナダで建造された。
ビクトリー船の型
残っているビクトリー船の状況3隻が博物館船として一般公開されている。
脚注
参考文献
外部リンク
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