ハマダーン州
ハマダーン州(ハマダーンしゅう、ペルシア語: استان همدان, ラテン文字転写: Ostān-e Hamadān)は、イランの州(オスターン)。州都はハマダーン。面積19,546km²、人口は1,738,234人(2016年国勢調査)[1]。 州都ハマダーンのほかトイセルカーン、ネハーヴァンド、マラーイェル、アサダーバード、バハール、ラザン、キャボド・ラーハングの諸都市がある。 地理と気候ハマダーン州は北西から南西にザーグロス山脈の一部「アルヴァンド」の山々が走り、全体に標高の高い地域にある。 ハマダーンは夏穏やかで、冬はかなり寒く、亜寒帯気候である。州都ハマダンの1月の平均最低気温は-10度を下回る。
歴史ハマダーン州はイラン文明で最も古い歴史をもつ地域の一つで、州内の遺跡がこれを物語る。詩人フェルドウスィーによると、神話時代、偉大なる王ジャムシードにより建設されたという伝説をもつ。今日のハマダーンは、古代オリエントのメディア王国の首都エクバタナであった。 ヘロドトスによれば、紀元前8世紀ころ、デイオケスという人物が現れてメディアを統合し、エクバタナに7重の城壁(ハフト・ヘサール)を巡らせて都として成長させたとある。当時はバビロンの塔に劣らぬ偉容を誇ったという。その後も、メディアの歴代王によって、周辺の開発が進み、帝国の巨大な首都へと変貌していったとされる。 メディア滅亡後も、アケメネス朝ペルシアおよびアルサケス朝の夏の都(夏営地)として栄え、サーサーン朝時代にも夏の宮殿が置かれた。 642年、ニハーヴァンドの戦いがあり、ハマダーンはアラブの手に落ち、繁栄は衰退にかわった。ブワイフ朝下でも多くの害を被るが、11世紀にはセルジューク朝がバグダードから再遷都した。 ハマダーンは支配勢力の権力の盛衰にともない常に襲撃の的となったが、ティムールの侵攻では完全に破壊され、繁栄を取り戻すのはサファヴィー朝の時代である。18世紀には都市はオスマン朝に降伏するが、英傑ナーディル・シャー・アフシャールによって押し返し、オスマン朝との和平によって、再びイランに戻った。 ハマダーンの街は東西交易路、イラン西部の交通の大動脈上に位置し、近代に至るまで交易・商業から大きな利益を得た。 今日のハマダーン高等教育機関
旧跡州内には歴史的遺産が多く、イラン文化遺産協会には442ヵ所が登録されている。そのうち以下のようなものが有名。 脚注
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