トゥルチャ
トゥルチャ (ルーマニア語: Tulcea、ウクライナ語、ロシア語、ブルガリア語:Тулча/Tulcha、トルコ語:Hora-TepéまたはTolçu[要出典])は、ルーマニア東部の都市。トゥルチャ県の県都。 歴史トゥルチャは紀元前にアエギッスス(Aegyssus)の名でシケリアのディオドロスの文書において言及された。オウィディウスは町を自著『エクス・ポント』(en:Ex Ponto)でふれ、「町の名は創建者であるダキア人にちなみカルピウス・アエギッスス(Carpynus Aegyssus)と名付けられた」と書いた。 紀元前15年から12年まで続いた戦いの後、ローマ帝国が町を支配した。ローマ人は自らの設計図にそって再建し、彼らの技術と建築的視野から町を再編した。現存する市壁の廃墟と防御用塔は、ローマ人の痕跡を物語るものである。考古学的な出土品はトゥルチャ考古学博物館に収められている。アエギッススの要塞化された町は10世紀まで、他の文書にも記載が残されていた。 5世紀から7世紀にかけ、東ローマ帝国の支配を受け、その後ブルガリア帝国(681年 - 1000年頃、1185年 - 14世紀)の支配下に入った[1] [2] [3] [4]。10世紀から13世紀にはジェノヴァ共和国に支配され、その後ドブルジャのブルガリア貴族ドブロティツァ(en:Dobrotitsa)が事実上の支配者となり、1390年以降、ワラキア公ミルチャ1世が支配した。 1416年、オスマン帝国に侵攻され、その支配はその後460年にも及んだ。トゥルチャがドブルジャ地方とともにルーマニアに併合されるのは1878年である(ベルリン会議 (1878年))。1848年頃、トゥルチャは小さな造船所のある都市のままで、1860年には都市特権を授かり、県の中心都市となっていった。 統計2002年調査によると、トゥルチャ人口は91,875人で、92.3%がルーマニア人である。目を引く少数民族は、3.4%のリポヴァン人(中世にロシア正教会の改革を拒み、ロシアを追われた)、1.4%のトルコ人である。元々の土着民族であったブルガリア人は、1941年のクラヨーヴァ条約締結により南ドブルジャがブルガリアへ返還されたため、トゥルチャを含む北ドブルジャを離れた。 姉妹都市参照参考文献
外部リンク |