ツレス島座標: 北緯44度57分 東経14度24分 / 北緯44.950度 東経14.400度 ツレス島 (ツレスとう、クロアチア語:Cres、発音:"Tsres"、 イタリア語 Cherso, ドイツ語: Kersch、 ラテン語:Crepsa, ギリシャ語:Chèrsos, Χερσος)は、クロアチアの島。ダルマチア北部クヴァルネル湾に浮かぶ島の一つ。プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属する。クルク島かイストリア半島からのフェリーで行くことができる。 島の面積は405.78平方キロメートルで、ダルマチア諸島最大の島クルク島とほぼ同じ大きさである。人口は3,184人(2001年)。 ツレス島と近くのロシニ島(Lošinj)はかつては一つの島だったが、海峡によって隔てられ、現在はツレスの町オソル(イタリア語名オッサーロ)との間に橋が架かっている。ツレス島には淡水湖ヴラナ湖がある。 歴史ツレス島には旧石器時代から人が住んでいた。後にローマ帝国の支配を受けた。ローマ帝国衰退後、数世紀に渡り東ローマ帝国に支配された。7世紀、クロアチア人がダルマチアの島々へ侵攻したが、彼らは8世紀初頭に島々を手放した。 822年前後にクロアチア=東ローマ間の緊張が高まる中、クロアチアは独立国家をつくった。866年頃、島民は最初のクロアチア=ヴェネツィア共和国の対立に見舞われた。ヴェネツィアは10世紀と11世紀にダルマチアの島々を支配下に置いた。 しかし、クロアチアは島々を取り戻し、その後数世紀に渡り、クロアチア、ハンガリー王国、400年間支配したヴェネツィアと、支配者が変わることになった。ナポレオン・ボナパルトの勝利でヴェネツィア領の島々はオーストリアの領有となり、その後すぐに再びフランス支配へ戻った。 ナポレオン没落後、オーストリアが100年ほどダルマチアの支配者となった。この時代に、オリーブ、セージといった農業生産が島の成功のきっかけとなり、経済が発展した。第一次世界大戦後の1920年、ラパッロ条約でツレス島はイタリア王国領となった。イタリア支配は1947年まで続き、その年にイストリア半島とともにクロアチアへ譲渡された。 イタリアから共産主義体制のクロアチアへ領有が移ったため、多くの住民が島を離れることを余儀なくされ、農業は下り坂になった。このことは、多くの植物の繁茂を引き起こした。最近はかつての島民が戻ってきて、農業と観光の両者の伸びから島の産業は活気づいている。 ツレスの町村島内には多くの町があり、島中央部を走る一本の道で全ての町村がつながっている。この道路の一方の端は、本土(プーラ近郊)からの船着場で、もう一方は、かつては一つの島だったが今は水路で隔てられたロシニ島のマリ・ロシニ(Mali Lošinj)への橋である。そのため、もしプーラ側からツレス島へやってくるとすれば、最初に到着するのはポロジナ(Porozina)の町である。
ツレスの町ツレスの町は都市のように大きく、中心部には観光客がツレス島土産(地元産のオリーブ油とワイン)を売る店が集まっている。町は自動車の乗り入れが禁止されており、徒歩で移動しなくてはならない。狭い通りの多い、イタリア諸都市のような町並みである。ツレス近くにはマリーナがある。 ヴラナ湖淡水湖で、水泳と釣りが禁止されており監視が厳しい。ロシニ島へも飲料水を供給している。東欧でも深い湖の一つで、最深部は76メートルに達する(海面下50メートル以上)[1] ヴラナ湖の伝説伝説によると、ヴラナ湖底には城があるという。城には裕福な姉娘が暮らしていたが、貧しい妹娘に金や食べ物を恵んでやろうとしなかった。そのため姉娘は、激しい雷雨で城を水に沈められるという罰を受けた。嵐が去った後に、ヴラナ湖が新たにできていたのである。この話には続きがあり、今でも風の強い日に耳を澄ませば、鐘楼の鐘が鳴るのが聞こえるという。 外部リンク
2 "Cres and Losij: Strolling through the islands and islets" Nadir Mavrovic, Nerezine 1997. Televrina d.o.o. Nerezine
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