ダストボウルダストボウル(英語: Dust Bowl)は、1931年から1939年にかけ、アメリカ中西部の大平原地帯で、断続的に発生した砂嵐である。 現象環境への影響を無視し収穫を最優先にした無謀な耕地化を原因とする、どちらかといえば人災に近い現象である[1]。アメリカ中部の大平原地帯は、白人の入植以前は一面の大草原であった。大平原にやってきた白人農民は、作物を植えるため表土を抑えていた草をスキ込みによってはぎ取り、地表を露出させた。地表は直射日光に曝され、乾燥して土埃になり、ドライ・ダウンバーストのような強い風が吹くと空中に舞いあがり、土埃の巨大な黒雲となった。雲ははるばるシカゴの空まで届いて空を真っ黒く覆い、吹き飛ばされた表土の大部分は大西洋へ吹き流されて完全に失われた。 経過1933年11月11日、強大なダストストームが乾燥したサウスダコタ州の農地から表土を剥がし、同年で最悪のダストストームとなった。1934年5月11日、ダストボウルの嵐の中でも最悪の二日に渡る強大なダストストームが中西部の大平原グレートプレーンズから大量の表土を取り除いた。土埃でできた雲によって遥か遠くのシカゴでは土のゴミが雪のように降り、一人あたり4ポンドもの埃が空から落ちてきた。数日後、同じ嵐はさらに東のバッファロー、ボストン、ニューヨークシティ、ワシントンD.C.に到達し、その年の冬にはニューイングランドで赤い雪が降ったという。 1935年4月14日は"黒い日曜日"とも呼ばれ[2]、ダストボウルの期間を通じて最悪の"黒い吹雪"が20回も発生して広い範囲に災害をもたらし、昼を夜のようにした。目撃者によれば、5フィート(約150cm)前が真っ暗で見えなかったという。 フランクリン・ルーズベルト大統領が就任して最初の100日間で、アメリカ合衆国政府は自然環境のバランスを修復する政府のプログラムを実施し、土壌保護局(SCS)を設立した。SCSは後の1994年に自然資源保護局(NRCS)として改組された。 影響アメリカ中西部農業の崩壊世界恐慌に加えてこの災害の被害を受けたことで、テキサス州、アーカンソー州、オクラホマ州などグレートプレーンズでは多くの土地で農業が崩壊し、農家は離農を余儀なくされた。350万人が移住し、多くは職を探しにカリフォルニア州などの西部へ移住した。 移住は非常に大規模であった。オクラホマ州では15%の人口がカリフォルニア州だけではなく、テキサス州、カンザス州、ニューメキシコ州へ移住した。オクラホマ州からの移住者である彼らは、少なくとも30万から40万人と見積もられる。彼らは「オーキー(Okie)」と呼ばれ、この呼称は現在でもまだ軽蔑的なニュアンスで使用される。 芸術人災は、現代の写真家、ミュージシャン、および作家によって記録された。写真家のドロシア・ラングはFSAプロジェクトの写真家として働いている間、フィルムに砂嵐の影響を収めて有名になった。フォークシンガーのウディ・ガスリーと小説家のジョン・スタインベックのような芸術家は、ともにダストボウルの時期の生活の描写で有名になった。 ダストボウルによる農耕の危機は、映画『インターステラー』(クリストファー・ノーラン監督、2014年)のインスピレーションの源にもなったともいわれる[3]。 出典参考文献
関連文献
関連項目
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