ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・トゥイズル
ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・トゥイズル(The Adventures of Twizzle、トゥイズルの冒険)は、1957年にイギリスでジェリー・アンダーソンが作った、子供向けテレビ人形劇である。白黒作品で、日本では公開されていない。 概要梗概手足を自由にのばせる人形トゥイズルは、高価な玩具だが、しつこく売ってほしいとやってくる少女に根負けしたおもちゃ屋の店主が2シリングで売ろうとする。トゥイズルはおもちゃ屋の店主と少女から逃げ出し猫の人形フッツォと出会う。フッツォは手足が大きいことでからかわれるのが嫌で逃げ出してきた。以降のエピソードでは二人がおもちゃが平和に暮らせる街「ストレイ・タウン」を作ろうとする。 製作彼女〔ロバータ・リー〕にこの番組を製作をしたいか聞かれたので、私達は「はい!」と答えた。すると彼女に子供番組だから人形劇でやると言われ、つい床に吐いてしまいそうになった。
ポリテクニック・フィルムズでカメラマンのアーサー・プロヴィスとともにピーター・コリンズによる『You’ve Never Seen This』を製作していたジェリー・アンダーソンは、1956年3月そこの仲間(アンダーソン、プロヴィス、レッド・ファーデラー、オーナー・スミス・モリス)とともにダグラス・ドップスの出資のもと新会社ペンタゴン・フィルムズを立ち上げた[注 1][4][5][6]。当時のイギリスは民放のITVが放送を開始した時期であり、その放映番組には『The Adventures of Noddy』があった。ケロッグ社は自社の宣伝にノディを使うことを決め、そのコマーシャルの製作依頼を出した先がペンタゴン・フィルムズであった。こうして人形劇と出会い短編『Here Comes Candy』なども製作していたが、これらが絵本作家ロバータ・リーの目に留まった[7][2]。彼女は自身が製作したキャラクターが動いているのを見たいと考え、テレビ化を考えていた。 ロバータ・リーが連絡をとった頃、プロヴィスとアンダーソンは同僚たちに幻滅していてペンタゴン・フィルムズの退社を決めていた。二人は1957年夏に退社した後即座に新会社APフィルムズ(アンダーソン=プロヴィス)を設立した[注 2][9]。この新会社に雇われたのがペンタゴン・フィルムズの美術・特撮の経験があるレッジ・ヒル、カメラ技師のジョン・リード、そしてそこにタイピストのバイトとして入社したシルヴィア・タムだった。この5人は筆頭株主ともなった[10]。 人形を人間の生き写しと考えたアンダーソンは、従来の人形劇で行われていた、平面的なセットの前で人形が固定されたアングルで撮影されるものを一新し、三次元的セットの中で人形がロング・ショットやクロース・ショットを用いて撮影された。このために、従来は背景の後ろからせり出していた人形師達は1.8メートルの高さに築かれたブリッジの上から操演することとなった[11]。人形の製作のために有名な人形師ジョイ・ローリーに連絡が行った。製作された試作品は張り子のように眼と口は描かれたもので動かなかった。その後ローリーの人形の会社から人形師のマレー・クラークとクリスティーン・グランヴィルが派遣された[12]。クリスティーン・グランヴィルはこの後『ロンドン指令X』までの全ての人形劇作品と『地球防衛軍テラホークス』でアンダーソン作品に関わる。 アンダーソンらは拠点をバッキンガムシャーのメイデンヘッド郊外にあるマナーハウスのアイレット・パークに構え、ここで製作を行った[8]。予算は一話あたり450ポンドだった[13]。舞踏室がスタジオとして使われたが専用のスタジオではないため、天井の漆喰の飾りが人形師を直撃した[11]。 声優にはノディの声も担当した女優のデニース・ブライヤーが猫のフッツォに起用された。アーサー・プロヴィスやデイヴィッド・エリオットは彼女のフッツォを覚えていて、ブライヤーは「まだ誰かが覚えているなんて面白い」と笑っている[14]。トゥイズル役にはナンシー・ネヴィンソンが、男性の声にはフランク・ダンカンが起用された。ブライヤーとネヴィンソンは後年のアンダーソン作品にも出演し、ブライヤーは『地球防衛軍テラホークス』でゼルダの声を、ネヴィンソンは『謎の円盤UFO』の「人間ロボット殺人計画」に出てくるグレイの大家の役をそれぞれ担当している。 編集には既にジェリー・アンダーソンと仕事の経験のあったデイヴィッド・エリオットが招かれた[12]。デイヴィッド・エリオットはこの後『サンダーバード』の「クラッブロガーの暴走」までアンダーソン作品に関わることとなる。またパートタイム労働者のセット製作補助者としてデレク・メディングスも働き始めた[14]。 ロバータ・リーは自らの歌を録音する時にイギリスの国民的歌手ヴェラ・リンに歌ってもらったことがあり、リンのピアニスト兼編曲家がバリー・グレイであった。しかしリーはグレイに作曲をさせずに、友人のレズリー・クレアの鼻歌をオーケストラに編曲させる音楽監督の役目を依頼した。こうして1957年9月6日にエルツリーのゲート・スタジオで13人の演奏者によって録音が行われ、その中にはバート・ウィードンもいた[15]。 こうして後年のアンダーソン作品に関わるスタッフの多くが、ここに集まった。 放映放送は、ロバータ・リーからの依頼通り1957年11月から始まった[14]。APフィルムズ設立から数ヶ月後のことであった[2]。放送が始まっても製作は続き、一日一話の撮影を目標にし、全てが完了したのは1958年1月のことであった[14]。撮影が完了した後もデイヴィッド・エリオットは編集のため残ったが、一度チームは解散された[16]。ロバータ・リーは次回作も依頼しようとしていたが、まずは予算の確保が喫緊の課題とされ、残ったアンダーソン、プロヴィス、ヒル、リード、タムは外部の仕事を請け負った[16]。この際ジェリー・アンダーソンは『Martin Kane — Private Investigator』の「The Film Studio Story」を監督し、ここでデイヴィッド・グレアムと出会っている[16]。 各話リスト放映日は全てアソシエイテッド=レディフュージョン局のものである[17]。
ソフト現在は第1話が現存するのみで、後年ロバータ・リーが製作に関わった人形劇『スペース・パトロール』のDVDに特典として収められた[18]。 その他本作のスチル写真は日本での公開例が大変少ないが、次の『トーチー・ザ・バッテリー・ボーイ』からは一定数以上の枚数が公開されている。 脚注注出典
参考文献
外部リンク
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