ジャールカンド州 (ジャールカンドしゅう、Jharkhand、ヒンディー語 :झारखंड 、IPA :[dʒʰaːrkʰəɳɖ] )は、インド の中部にある州。州都はラーンチー 。2011年 の人口は3298万8134人で、面積は7万9700km²。2000年 にビハール州 から分離された。ジャルカンドと表記されることもある[ 1] 。
人口
隣接州
地理
ラージマハルトラップ (英語版 ) は、広大な火成活動の痕跡として出来た階段状の丘で、東ゴンドワナ大陸 から分離したインド亜大陸 がユーラシア大陸 に衝突した際にデカントラップ と共に出来た。チョーター・ナーグプル高原 、ラージマハル丘陵 (英語版 ) がある。
歴史
ジャールカンド地方には、中石器 ・銅器時代 からヒトが居住しており、古代の洞窟壁画によってそのことが示されている
[ 3]
[ 4]
[ 5] 。
古代
石器はチョーター・ナーグプル高原 から発見されており、中石器時代から新石器時代 のものと見られている[ 3] 。
また、古代の洞窟壁画がハザーリーバーグ県 のイスコー(इस्को)にあり、銅器時代中期(紀元前9000~5000年)のものと考えられている[ 4] 。
パラームー県 内のソーナ川 と北コーヤリー川 の合流点にあるカブラ・カラー墳墓では、新石器時代から中世にかけてのさまざまな遺物や美術品が発見されており、赤色土器 や赤黒色土器 、黒色土器 、黒色擦文土器 および北方黒色磨き土器の陶片は、銅器時代から中世後期 のものが発見されている[ 6] 。
シンハブーム県 では鉄鋼スラグ や細石器 および陶片が発見されており、放射性炭素年代測定によって紀元前1400年頃のものと判定されている[ 5] 。
デーヴガル のバイドヤナート・ジュヨーティルリンガ寺院。
聖地シカルジー にあるジャイナ教 のパラスナート寺院。20人のティールタンカラ の涅槃の地と伝えられる。
古代のジャールカンド地方は、マウリヤ朝 やグプタ朝 、ガウル朝 、パーラ朝 、ナーガヴァンシー朝 などの帝国や諸王朝によって支配されていた。紀元前500年 頃の十六大国 の時代には、ジャールカンド地方はマガダ国 とアンガ国 の一部であった。マウリヤ朝時代には、アタヴィカ(अटविक)と呼ばれる諸国に支配され、アショーカ王 代の紀元前232年 にマウリヤ朝の統治下に入った。グプタ朝のサムドラグプタ王 は、現在のチョーター・ナーグプル地方を行軍する途次、マハーナディー渓谷 の南コーサラ国 に対する先鋒を命じている[ 7] 。
7世紀 には、中国僧の玄奘 がジャールカンド地方を旅したが、カルナスヴァルナ王国 とシャシャーンカ王国 が統治しており、カルナスヴァルナ王国の北はマガダ国に、東はチャンパー王国 に、西はマヘーンドラ国に、南はオリッサ国 に接している、と記している[ 8] 。
中世
ドゥムカー県 にあるマルーティー寺院 。
中世のジャールカンド地方は、ナーガヴァンシー朝、カヤラヴァーラ朝、ラームガル政権およびチェーロー王国 によって支配された[ 10]
[ 11] 。
1574年 には、パーラムー県まで勢力を伸ばしていたアクバル帝 のムガル帝国 がマーン・シンハ1世 によって侵攻されており、その後もムガル帝国治下では他勢力の侵攻が記録されている[ 12] 。
アーニ・ナータ・シャーハデーヴ王 によって建立された、ラーンチー のジャガンナート寺院。
またナーガヴァンシー朝のマドゥ・シンハ王 の勢力圏でも、アクバル帝配下の将軍がナーガヴァンシー朝の首都ククラガル に侵攻しており、同朝のドゥルジャン・サール王 の治世にも侵攻している[ 13] 。
1658年 から1674年 にパーラムーを支配したメーディニー・ラーイ王 は、ガヤー 南部およびハザーリーバーグまで版図を拡大し、ナヴラタンガルを攻撃して、チョーター・ナーグプル高原のナーガヴァンシー朝を打ち破った[ 15] 。
パーラムー城
ナーヴラタン城
パーラムー地方におけるチェーロー王国の統治は19世紀 まで続いたが、内紛により弱体化して、イギリス東インド会社 に敗北した。パーラムー地方は後に、イギリス政府によって売却されている[ 16] 。
イギリス統治時代
チェーロー王国、ナーガヴァンシー朝、ラームガル王国 およびカラーグディハー はイギリス東インド会社の支配地となり、ラームガル藩王国やその他の領主の土地は恒久的にザミーンダーリー制 が敷かれるようになった。カラーグディハーでは、1809年 からラージダーンワル 王が任じられ、またコーダルマー 、パールガンジ 、レードー など一部の土地ではザミーンダーリー制も敷かれてカラーグディハー・ガーディーが置かれた[ 17] 。
チョーター・ナーグプル高原の諸藩王国はマラーター帝国 の勢力圏 になっていたが、19世紀 初頭のマラーター戦争 の結果イギリス東インド会社の属国となり、チョーター・ナーグプル小藩王国 と呼ばれるようになった[ 18] 。
イギリス東インド会社によるジャールカンド地方の植民地化は住民の抵抗を引き起こし、1769年 にラグナート・マハトー が主導した反乱を皮切りに[ 19] 、1771年 にはラージマハール丘陵 で先住民パハーリヤーの指導者ティルカー・マーンジー が領主およびイギリス政府に対し反乱、1779年 にはマーンブーム でブーミジ族 がイギリスによる支配に対して武装蜂起した。
イギリス東インド会社 のザミーンダーリー制 に反対した1855年 のサンタールの反乱 。
19世紀にはさらに激しさを増し、1807年 にはバルウェー のウラーンウ族 がシュリーナガル から赴任した領主を殺害、1811年 と1813年 にはムンダ族 が反乱を起こし、1812年 には在地領主であったバクタル・サーイ とムンダル・シンハ の二人がイギリス東インド会社を相手に戦った[ 20] 。1820年 にはシンハブーム でホー族 が反乱、1832年 には西ベンガル でコール族 が蜂起、そして1855年 には兄弟のシドゥーとカーヌーに率いられたサンタールの反乱 が起こった。
1857年 、父祖伝来のジャーギール を受け継いでいたボーグター系カルワール族 の族長兄弟であるニーラーンバラとピーターンバラが、イギリス東インド会社に対して反乱を起こした[ 12] 。この年の5月10日 にはインド大反乱 が始まり、タークル・ヴィシュワナート・シャーデーウ やパーンデー・ガンパト・ラーイ らがイギリス東インド会社に対して蜂起して、チャトラーの戦い において反乱軍と東インド会社の間に戦闘が発生した[ 21]
[ 22] 。
この他インド大反乱では、ティカイト・ウムラーンウ・シンハ 、シェーク・ビカーリー 、ナディール・アリ、ジャイ・マンガル・シンハらも、中心的な役割を果たした[ 23] 。
インド大反乱の後、イギリス東インド会社によるインド支配はビクトリア女王 と王室に移管され[ 24] 、女王は1876年 にインド女帝 を名乗った。
1882年 にチェーロー王国やカルワール族が再び反乱を起こすが、撃退された[ 25] 。また1895年 にはビルサー・ムンダー の反乱が起き、1900年 まで続いた[ 26] 。この時期の反乱は、主にクーンティー 、タマール 、サルワダー 、バンドガオーン などのムンダ族居住地域に集中していた。
ラームガル における第53次インド国民会議 の模様。
1905年 10月、ベンガル管区 政庁から、ヒンディー語 話者人口の多いチャングバーカル州 、ジャシュプル州 、コーリヤー州 、サルグジャー州 およびウダイプル州 は中部地方州 政府に所轄が移され、オリヤー語 話者人口の多いガンガープラ州 とバネーイ州 の2州はオリッサ属州 に移管されて、カラスアーン州 とサラーイケーラー州 のみがベンガル管区に残留となった[ 27] 。しかし1936年 には、これら9州はすべて東部諸州政庁 に移管され、各州の指令下に置かれていた官僚たちはインド総督 の直接支配下に入った。
1940年 3月、第53次インド国民会議 [ 28] [ 29] がラームガル で開催され、アブル・カラーム・アーザード を議長としてマハートマ・ガーンディー [ 30] 、
ジャワーハルラール・ネールー ら、インド独立運動の有力者たち[ 31] が
出席し[ 32] 、産業博覧会なども開催された[ 33] 。スバーシュ・チャンドル・ボース も、同時期に会議を主催している。
住民
先住民 (Upajati ) 28%、指定カースト民 (英語版 ) (Scheduled Castes、従来の不可触民 も参照)12%、その他 60%。
産業
ウラン - ジャドゥゴダ (ジャドゥゴダ鉱山 (英語版 ) , Narwapahar鉱山 (英語版 ) 、Bhatin mines)。
石炭 - ダンバード県[ 34] やゴッダー県には、炭鉱 が存在[ 35] するなど各地で主要産業となっている。
地方行政区分
ジャールカンド州の行政区画
パラミュ郡 (英語版 ) (Palamu division)
ガルワー県 (英語版 ) (Garhwa District)
パラームー県 (英語版 ) (Palamu District)
ラーテーハール県 (英語版 ) (Latehar District)
北チョーター・ナーグプル郡 (英語版 ) (North Chotanagpur division)
チャトラー県 (英語版 ) (Chatra District)
ハザーリーバーグ県 (英語版 ) (Hazaribagh District)
コーダルマー県 (英語版 ) (Koderma District)
ギリーディー県 (英語版 ) (Giridih District)
ランガル県 (英語版 ) (Ramgarh District)
ボーカーロー県 (英語版 ) (Bokaro District)
ダンバード県 (英語版 ) (Dhanbad District)
南チョーター・ナーグプル郡 (英語版 ) (South Chotanagpur division)
ローハルダッガー県 (英語版 ) (Lohardaga District)
グムラー県 (英語版 ) (Gumla District)
スィムデーガー県 (英語版 ) (Simdega District)
ラーンチー県 (英語版 ) (Ranchi District)
クーンティ県 (英語版 ) (Khunti District)
コルハン郡 (Kolhan division)
西シングブーム県 (英語版 ) (West Singhbhum District)
サラーイケーラー・カルサーワーン県 (英語版 ) (Seraikela Kharsawan District)
東シングブーム県 (East Singhbhum District)
サンタール・パルガナ郡 (英語版 ) (Santhal Pargana division)
ジャームターラー県 (英語版 ) (Jamtara District)
デーオガル県 (英語版 ) (Deoghar District)
ドゥムカー県 (英語版 ) (Dumka District)
パークル県 (英語版 ) (Pakur District)
ゴッダ県 (英語版 ) (Godda District)
サーヒブガンジ県 (英語版 ) (Sahebganj District)
脚注
出典
^ “100年燃え続ける「地獄」の炭鉱 行き場なく残る住民 印 ”. www.afpbb.com (2023年9月17日). 2023年9月17日 閲覧。
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関連項目
外部リンク