ジャン・サージュ
ジャン・サージュ(Jean Sage、1941年7月5日[1] - 2009年10月8日[2][1])は、フランス出身のレーシングドライバーで、1970年代から1980年代にかけて、フランスの自動車会社であるルノーのフォーミュラ1チーム(ルノーF1)でチームマネージャーだったことで知られる。 経歴フランス中部のピュイ=ド=ドーム県ティエールの裕福な家に生まれた[2][1]。 10歳の頃はシャンベリに住んでおり、近所に所在していたエクス=レ=バン・サーキットへと母親によって散歩がてら連れられていき、そこで開催されるフォーミュラ2(F2)のレースをしばしば観戦するという環境で育った[3]。 父親は自動車には全く関心を持っていなかったが、サージュは車やレースに情熱を注ぐようになり、10代半ばの頃にはラリー競技をしていた友人たちを手伝うようになった[3]。 ドライバー20歳の時(1960年頃)、エイビスレンタカーのジュネーブ支店で勤務する傍ら[3]、ラリー仕様のフェラーリ・250GT SWBを駆るアンドレ・シモンのコ・ドライバーとなり、初めてのラリー(レース)に挑んだ[2]。 その後、ジャン=ピエール・アンリウ、ジェラール・ラルースとも組んでスポーツカーレースへの参戦を続け、1960年代初めにはF3にも参戦した[2]。 1967年にはエイビスレンタカーのローザンヌ支店長となっていたが、この年から、モータースポーツをフルタイムの仕事にして専念することにした[3]。この時期のサージュは、ルノー・アルピーヌのラリーチームの臨時メンバーをしばしば務めるようになっており[3]、ル・マン24時間レースにおいても3回の参戦を果たした[1]。 チームマネージャー1972年、ラルースがポール・アーシャンボー(Paul Archambeaud)が設立したレーシングチームのドライバーとなり、この時にサージュはチームマネージャーにならないかとラルースから誘われ、これを契機にドライバーを引退して、チームマネージャー業を始めた[3]。 1973年にはアーシャンポーのチームをラルースとともに買い取り、「エキュリー・エルフ・チーム・スイス」を立ち上げた[3][2]。同チームはレーシングスポーツカーの製造を目指したが、ほどなく、フォーミュラ2(F2)におけるレース参戦に注力するようになり、1976年のヨーロッパF2選手権において、サージュとラルースが指導していた若手のジャン=ピエール・ジャブイーユを擁し、チャンピオンへと押し上げた[1][3][2](ラルースは1975年にルノーに引き抜かれたため離脱[3])。 ルノーF1 (1977年 - 1987年)1976年、ルノーにより同社のモータースポーツ責任者に任命されたラルースが、それまでのルノー・アルピーヌを改組する形で、ルノー・スポールを設立した。 ルノー本社の意向で、ルノーは1977年からF1に参戦することになり、1977年初め、ラルースにより、サージュはルノーF1のチームマネージャーとして雇われた[2](チーム代表はラルース)。その後、サージュは一貫してルノーのF1チームのマネージャーを務め、この間にルノーは1979年フランスグランプリにおいてF1初優勝を達成し、1983年シーズンにはアラン・プロストがシーズン最終戦までチャンピオンタイトルを争った[1]。1985年限りでルノーのフルワークスチームが撤退した後もサージュはしばらく留まり、1987年末にルノーを去った[2]。 その後ルノーから去った後は、シャルル・ポッツィのレーシングチームであるフェラーリ・フランスに加入し、チーム運営を任された[2][1]。このチームでは、1989年から1990年にかけて、北米のIMSA GT選手権にフェラーリ・F40を参戦させており、ジャン・アレジ、ジャン=ルイ・シュレッサーらとも協働した[2]。 サージュは1970年代以前からフェラーリを中心とした自動車コレクターであり、2000年代まで収集家として活動を続け、ヒストリックレースイベントに自らステアリングホイールを握ってたびたび出場した[2]。 晩年は癌との闘病生活を送り、2009年10月8日に68歳で死去した[1]。 レース戦績ル・マン24時間レース
エピソード
脚注出典
参考資料
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