コンシェルジュリー
コンシェルジュリー(Conciergerie)は、フランスのパリ1区、シテ島西側にあるかつての牢獄。現在はパリのパレ・ド・ジュスティス(司法宮)の一部で、観光名所となっている。 概要もともとフィリップ4世などカペー朝の王宮(palais de la Cité、シテ宮)として建てられ、10世紀から14世紀にかけて使用された。しかし、シャルル5世らによって放棄され、ヴァンセンヌ城に居城が移された後の1370年に牢獄として使われ始める。ロロージュ河岸に沿って建つ建物の地上階と2つの塔が牢獄に割り当てられた。 元は14世紀後半にシャルル5世がサン・ポール館へ移動する時に王室司令部を置き、その際に特権を得て護衛をした門衛をコンシェルジュと呼んだが、いつしかその活動を行っていた建物自体をコンシェルジュリーと呼ぶようになった。 フランス革命の後恐怖政治の時代は国民公会により革命裁判所が隣設され、1793年からフランス革命暦3年草月12日(1795年5月31日)までの約2年間に、2780名に対して死刑判決が下されたという。多くの王族、貴族などの旧体制派が収容され、当時はその牢獄に入るとかならず死刑になるというので「死の牢獄」「ギロチン控えの間」とよばれた。マリー・アントワネットが投獄されたのは1793年である[1]。しかし、大多数は一般市民・貴族・学者などだった。牢獄の設備は悪かったらしいが、監視は比較的手薄だったという[2]。革命裁判所廃止後は、破毀裁判所(後の破毀院)が置かれた。 牢獄は19世紀の第一帝政期になっても使用されていたが、1934年にその機能が廃止されるに至る。現在はパリのパレ・ド・ジュスティス(司法宮)の一部で、観光名所となっている。2011年初頭に建物の大規模修繕がなされた。 その後、歴史遺産に指定され、現在はパリのセーヌ河岸として世界遺産の登録対象になっている。なお、未公開の箇所はパリ大審裁判所などの裁判所と警視庁の一部(Dépôt、デポと呼ばれる被告人等を裁判のために一時的に監置しておく場所や行政的拘置のための場所)として現在も使用されている[3]。 また、マリー・アントワネットが処刑される前に2か月半過ごした独房も現在再現され、説明のための掲示板もある[3][4]。 実態当時の牢獄は有料だったため、払った額に応じて設備が変わった[3]。払える額で囚人は以下の3つに分けられる。
外部現在では貴重なゴシック建築の建築物で、シーザーの塔、銀の塔、ボンベックの塔、時計の塔の4つの塔で占められている(なお、時計の塔以外の塔は特記事項がないため省略)[3]。 内部
また二階は資料館のようになっており、処刑された人の名や受刑者に関する資料も展示されている[3]。 主な囚人
交通脚注
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