クマン人 (Cumans、現地名:PolovtsiansまたはPolovtsy)[ 1] は、クマン・キプチャク連合 の西部支部を構成したテュルク系民族 である[ 2] [ 3] [ 4] [ 5] 。人種としてはコーカソイド をベースにモンゴロイド の遺伝子も濃厚に混じっている。
概要
ペチェネグ 人に近縁で[ 6] 、黒海の 北、クマニア として知られるヴォルガ川 沿いの変化する地域に住み、そこからクマン・キプチャク連合がコーカサス とホラズム帝国の 政治に干渉した[ 7] 。クマン人は、中世のバルカン半島に 永続的な影響を及ぼしたユーラシアステップ の猛烈で手ごわい遊牧民戦士であった[ 8] [ 9] 。多人数の集団で、文化的に洗練されており、軍事的に強力であった[ 10] 。
チュルク語 において、qu 、qun 、qūn 、quman 、qoman などの単語は、黄色系統の色を指しており、「淡いクリーム色 」、「淡い黄色 」、または「黄色がかった灰色 」の意味となる。この単語が民族名となった理由としては、以下の説がある[ 11] [ 12] 。
クマン人に金髪 が多かったためとする説。これが最も有力な説とされる。
クマン人が乗っていた馬の色に由来する説。アハルテケ などの中央アジア に産する馬の品種では、白に近い黄色が見られる。
クマン人が持っていた伝統的な水瓶の名に由来する説。
「力」を表すチュルク語に由来する説。
多くのクマン人が最終的に黒海の西に定住し、キエフ大公国 、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国 、ジョチ・ウルス 、第二次ブルガリア帝国、セルビア王国 、ハンガリー王国、モルダビア、グルジア王国 、東ローマ帝国 、ニカイア帝国 、ラテン帝国 、ワラキア 等々の政治に、クマン人が影響を与えた[ 13] 。クマン人はまた、第4回十字軍 と、第二次ブルガリア帝国の創設において重要な役割を果たした[ 7] [ 14] 。クマン族とキプチャク 族が政治的に参加し、クマンとキプチャクの連合を結成した[ 10] 。ハンガリー王ラースロー4世 の母エルジェーベト は、ハンガリーに移住したクマンの族長の娘である。
クマン語 はいくつかの中世の文書で証明されており、初期のチュルク語 の中で最もよく知られている[ 5] 。 Codex Cumanicus は、カトリックの宣教師がクマンの人々とコミュニケーションをとるのを助けるために書かれた言語マニュアルである。
脚注
^ “Polovtsy | Meaning of Polovtsy by Lexico ”. 2020年3月25日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年3月25日 閲覧。
^ Encyclopædia Britannica Online Cuman Archived 2015-06-14 at the Wayback Machine .
^ Robert Lee Wolff: "The 'Second Bulgarian Empire'. Its Origin and History to 1204". Speculum , Volume 24, Issue 2 (April 1949), 179. "Thereafter, the influx of Pechenegs and Cumans turned Bulgaria into a battleground between Byzantium and these Turkish tribes ..."
^ Bartusis, Mark C. (1997). The Late Byzantine Army: Arms and Society, 1204–1453 . University of Pennsylvania Press. pp. 26–27. ISBN 978-0-8122-1620-2
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^ a b Vásáry, István (2005). Cumans and Tatars Oriental Military in the Pre-Ottoman Balkans 1185–1365 . Cambridge University Press. ISBN 978-0-5218-3756-9
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関連項目
外部リンク