ゆーとぴあ
ゆーとぴあは、日本のコントコンビである。ゴムパッチン芸で一世を風靡した。 活動時期は1978年 - 1989年、1996年 - 2008年、2017年 - 。 ライムライト → ニュースタッフエージェンシー → サワズカムパニー → 三木プロダクションに所属していた。2015年より芸能プロダクション「ビッグ・ブッキング・エンターテインメント (株式会社BBE)」に所属。共に大病を患ったことで、後から病気になったピースがホープに相談したことがきっかけとなり、2017年に再々結成[1]。 メンバー
概説第1期(昭和期)1978年に浅草松竹演芸場で結成。ピースが口に咥えた極太ゴム紐をホープが引っ張り、顔面に直撃させるゴムパッチン芸で、一躍脚光を浴びた。 『花王名人劇場』への初出演を前に、澤田隆治プロデューサーと「よろしくネ」のポーズやゴムパッチン芸を改良し、学園ドラマ風の掛け合いから、生徒(ピース)に咥えさせたゴム紐を教師(ホープ)が引っ張りつつ、
…等と説教するツカミを加えて、人気を不動のものにする。 ゴム紐が伸び切ったところで生徒がすかさず口を開き、教師に逆襲するというバリエーションもある。ゲストや客を相手に敢行する場合もあり、誰もが痛がることから察するに、実際に相当痛い模様。 コマーシャルにも多数出演するなど幅広く活躍したが、その後ゴムパッチンがマンネリ化して受けなくなったため、『ゴム地獄からの脱出』と銘打ってゴムパッチン無しのパターンにも挑むが、ジリ貧に喘ぐ。 『田端グループ』の長としてホープの若手育成能力を高く評価する澤田が、東阪企画のスカウト兼教育係にと誘ったがこれを断わり、自前の芸能事務所『チャンプ企画』を設立。しかしこれが元で借金が嵩み、ホープは躁鬱病から酒、睡眠薬、ギャンブル依存症に陥って、家庭も崩壊した。 「ご容態に伴う自粛」で営業が激減した事でも打撃を受け、1989年に所属事務所に無断で解散を強行。この時ホープの盟友ビートたけしの計らいで、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の番組内で『最後のゴム』と題した解散式を行ったが、ホープはニュースタッフエージェンシーから破門を申し渡されて仕事を干され、借金苦から芸も荒れて、表舞台からフェードアウトする。 ピースは歌舞伎町のスナックの雇われ店長で糊口を凌いだ。 第2期(平成期)ホープは『たけし軍団』に対抗し、ぼんちゃん(西田和晃)らチャンプ企画で面倒を見ていた若手を率いて『ホープ軍団』の活動を本格化したが浮上せず。写真週刊誌『フライデー』の企画で、自分に多額の保険金を掛けて内戦下のアフガニスタンに渡り、ムジャーヒディーン民兵の前で慰問と称してゴムパッチン芸を披露するなど、捨て身の営業も行ったが挽回できずにいたところ、旧知のサワズカムパニーの社長と偶然再会。ちょい役を紹介される内に、グルメや温泉番組のレポーターとして定着した。 しかし舞台に未練のあるホープは、『コント百連発』(相方は轟二郎)『アッパー8』(相方は武者)を解散した弟弟子の水島びん・青木イサムと『コントSOS』を組むなどしたがパッとせず、ピースの副業もバブル崩壊で行き詰まったため、ホープと義兄弟の契りを結ぶ石倉三郎の取り成しで、古巣のニュースタッフエージェンシー(渋谷道頓堀劇場)に詫びを入れ、1996年にコンビ再結成した。 ピースに学生服が似合わなくなったため、
……とのボケを加えるなど、ゴムパッチン芸もバージョンアップした。 『東京新喜劇21』を共同座長として率いた他、従前のピン活動も継続した。2006年公開の『トリック劇場版2』は、監督の堤幸彦が大ファンだった事から、ゆーとぴあのギャグを前提に脚本構成されており、重要な役回りを与えられて出ずっぱりで出演。これを機に人気復活するものと当て込んで、自費でグッズやCDなどを用意したが、大量に売れ残ったため、また借金を背負った。 2007年には結成30周年記念公演を行ったが、これも失敗して借金を増やし、2008年9月23日にピースが座長の劇団を旗揚げした後、10月20日にホープが一方的にコンビ再解散と、ゴム封印を発表した。 解散を知らされていなかったピースは、フジテレビのインタビューにおいてショックを受けた様子で「凍結と思っていた」「電話一本欲しかった」と述べた[7][8]。 ホープは2009年4月にブッチー武者・酒井晴人(激弾BKYU座長)と『ホープ軍団』を再旗揚げし、同年11月26日、下積み時代から親交の深いビートたけしの命名により『ホープ軍団』から『コント八ッ場ダム』へと改名した。 またホープは、仕事が減ったベテラン芸人や、売れない若手に活動の場を提供する『お笑い職業安定所』を主宰している。 主なギャグ
出演テレビ
テレビドラマ
映画
Vシネマ
CM
舞台
発売メディアEP
CD
DVD
書籍
脚注・出典
外部リンク
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