なごり雪
「なごり雪」(なごりゆき)は、伊勢正三が作詞・作曲したかぐや姫の楽曲。イルカによるカバー・バージョンがヒットを記録し、世代を超えて歌い継がれている。 概要1974年3月12日、かぐや姫のアルバム『三階建の詩』の収録曲として発表された。21才の伊勢がプロとして作詞作曲をした初めての作品[1]。オリコンアルバムチャート1位、年間5位。 これは失恋の歌であり[注釈 1]、恋人と別れて違う人生を歩くことになった男の青春の情景を思い浮かばせる[3]。歌詞には「東京」の文言が出てくるが、伊勢本人は出身地である大分県津久見市の津久見駅をモチーフにしたと語っている[4]。国鉄の蒸気機関車「デゴイチ」は1975年の国鉄無煙化まで走行していたが、国鉄の電車は旧来呼称の名残りで「汽車」と呼ばれ、歌詞の「汽車」というのは国鉄ブルートレインのことである[5]。新幹線が東京と九州をつなぐのは遥か未来であり、当時は東京と伊勢の故郷大分は非常に長い旅路であるからこの歌を作ることができたのだと伊勢は振り返っている[6]。当時のブルートレインは、寝台特急「富士」が18時00分に東京駅を出発して翌日の11時45分に大分駅に到着した[注釈 2]。寮生活を送っていた大分の高校時代、実家から寮に戻る列車は切なく、上京してからの東京と故郷の間も切なさがあったという[8]。 伊勢はかぐや姫のメンバーとして作詞を担当することはあったが、アルバム『三階建の詩』(1974年3月)に向けて初めて作詞作曲を任された[5]。1973年の秋、伊勢が22才になる直前であった[8]。伊勢は「自由の門戸よ! ついに開いた!」と一人でしきりにつぶやき歓喜した[9]。最初にサビのメロディと歌詞が思い浮かび、それにストーリーを加えて行き、東京駅のホーム、若い男女、出発を待つブルートレイン、線路には決して積もることがない今期最後の名残惜しい降雪、と伊勢本人はこう説明している[5]。自信作だったのだが、南こうせつらに聞かせたところ受けが良くないと感じた伊勢は一晩で第2作となる「22才の別れ」を作って聞かせた[5]。「22才の別れ」でも男が失恋している。一説では「なごり雪」と「22才の別れ」の男女は同一カップルといわれている[2]。「なごり雪」を聞いた南こうせつは、伊勢の才能に衝撃を受けていた[10]。 富澤一誠のインタビューで伊勢は、「なごり雪」くらいの作品はいつでも作れると豪語し、富澤の後のインタビューでは「書こうと思ったけど、もう書けなかった」と答えたという[5]。後になれば、伊勢はその2曲が書けたのは奇跡に近く、何か計り知れない瞬間であったのだと思っている[11]。 以前から南こうせつは「3年で一区切り」とかぐや姫の解散を予言していた[12]。「神田川」の大ヒットによりグループは自分たちの知らないところで運営が進行し始め、「なごり雪」か「22才の別れ」を次のシングルにしたいグループの意向に沿わず、いつの間にか「赤ちょうちん」と「妹」がシングル化・映画化された出来事は解散時期を早めたのだと南は笑い飛ばしている[13]。南、伊勢、元シュリークスの山田パンダによるかぐや姫が1975年4月12日を以って解散した後、「なごり雪」は1975年8月に一夜限りの再結成をした伝説のオールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」で歌唱され、同DVDにて視聴することができる。 かぐや姫解散決定に際し伊勢はフォークデュオ「風」を結成し、自身のデビュー作「なごり雪」ではなくデビュー第2作「22才の別れ」を風の1stシングルとして1975年2月5日にリリースした。その頃、かぐや姫や風と同じ音楽事務所に所属するイルカは、山田パンダ脱退後に加入したシュリークスの解散後、元シュリークスのリーダーでイルカの夫である神部和夫を彼女のマネージャー兼プロデューサーとして夫との連携でソロ活動をしていた。音楽業界では、かぐや姫解散による「なごり雪」のシングル未発表が惜しまれ、イルカにオファーが寄せられた[14]。マネージャー兼プロデューサーの神部和夫が事務所の会議で提案をしたのである[14]。イルカはかぐや姫と一緒にコンサートツアーを回っていたので、かぐや姫が「なごり雪」を歌う時の観客の歓喜を間近で観ていた[9]。彼女は自分がよく知る同じ事務所の名曲を歌ってしまうことに躊躇したが、伊勢は歌ってもらえるのがうれしいんだということを彼女に伝え、伊勢には彼女は決心がついたように見えたという[5]。伊勢とイルカの間で次のようなやり取りがあった[15]。
満を持して1975年11月5日にシングル発売されたイルカによるカバーバージョンが徐々に売れ行きを伸ばしてヒット作となり、以降、日本の早春を代表する歌の一つとして歌い継がれ、さまざまなアーティストによってカバーされている。 2002年にはこの歌の世界観に対する独自の解釈に基づき、大林宣彦監督が大分県臼杵市でロケを行い『なごり雪』として映画化した[4]。 2005年、第56回NHK紅白歌合戦の「スキウタ」アンケートで白組18位にランクインされた。 2009年10月24日から[16]JR九州の津久見駅で接近メロディとして「なごり雪」のメロディが使用されている。伊勢夫妻によるピアノアレンジである[17]。津久見駅長の後藤静昭が伊勢のファンであり、2年がかりの説得で実現した[18]。当初は特急発着時に流されていたが[19]、2020年11月現在では特急「にちりん」等の列車の入線前に流されている[20]。また、2010年3月には同駅に、歌詞の一部と伊勢が津久見駅に寄せた文とを刻んだ2枚の石板が並んだ記念碑が設置されている[20][19]。 2013年に日本気象協会が選定した「季節のことば36選」で、3月のことばの一つに「なごり雪」が選ばれた[21]。これを知った伊勢は「ものすごくうれしかった。実はこの曲を発表した当時、なごり雪という言葉は存在しなかった。勝手にこんな言葉を作られては日本語の乱れを助長する。『名残の雪』に変えたらどうだとまで言われた。作り手としては<の>はどうしても入れたくなかった。曲はヒットしたがモヤモヤは残った。あれから40年近くたって気象協会の<季節のことば>に選ばれたと聞き、胸のつかえが下りた気分」と語っている[22]。作曲当時、立原正秋の不倫小説『残りの雪』が1973年から1974年に日経新聞で連載された後に新潮社から刊行された[9]。それに倣って「名残の雪」となると春になってもまだ山に雪が残っている風景になってしまいそうで、そうではなく伊勢は春に降る最後の「名残惜しい雪」を表現するために「なごり雪」という言葉を歌詞に入れた[9]。歌詞の完成は締め切りを過ぎ、アルバム『三階建の詩』の歌詞カードは伊勢の2曲に待たされた[9]。タイトルはレコーディングの後で締め切り直前になって決まり、かぐや姫のシングル「田中君じゃないか」のモデルとなった田中ディレクターに急かされたその場で伊勢が生み出したアイデアが「なごり雪」であった[9]。 2024年に「イルカ50周年 イルカのミュージックハーモニー30周年記念 青春のなごり雪コンサート」が開催され、この年さらに日本各地で「『なごり雪』50周年スペシャル 伊勢正三&イルカ コンサート」が開催されることが決定している[23]。 カバーイルカのカバー
1975年11月、イルカの歌によるカバーバージョンがシングルとして発売。当時の日本においてカバーの歌唱は珍しかった[24]。翌1976年に掛けて、オリコンの集計で55万枚近いセールスを記録した。累計売上は80万枚[25]。自身のシングルとしては最大の売上を記録した。 このシングル盤は編曲が松任谷正隆、アコースティックギターは吉川忠英、エレキギターは鈴木茂、ベースは宮下恵補、ドラムは村上秀一の演奏によってレコーディングされた[26]。松任谷はこの編曲が他アーティストの作品編曲の最初であった[9]。 サウンドはフォークというよりはポップス[9]。イントロは雪に降られているような印象でテンションコードが使用されている[9]。オリジナルとは一部のメロディが異なり、イルカバージョンは最後の「綺麗に」から「なった」までを溜める。伊勢は錚々たるミュージシャンが参加した曲を聞き、ピアノのイントロから完璧に納得し、「なごり雪」は「僕から旅立った」という気持ちになった[9]。 イルカのアルバム『夢の人』収録バージョン「なごり雪」は伊勢のギターの師匠である石川鷹彦が編曲した。 イルカによる「なごり雪」カバーの提案者であったイルカの夫は2007年3月21日の春分の日に死別した。彼は長年パーキンソン病を患い、最後は言葉が話せなかった[27]。イルカの人生で唯一の恋人であり唯一の夫である彼は、別れの瞬間が近づくと目を強く3回閉じ、イルカはそれを「さようなら」と受け止めた[27]。 収録曲
伊勢正三のセルフカバー
2002年、上述の映画「なごり雪」のサウンドトラックのために伊勢正三が再録音、シングルとして発売された。 またなごみーず(伊勢・太田裕美・大野真澄(元・ガロ)によるユニット) では、コンサートで度々伊勢のギター伴奏で太田が歌っている。 収録曲
メディアでの使用
その他のカバー
メディアでの使用
脚注注釈出典
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