おろしや国酔夢譚『おろしや国酔夢譚』(おろしやこくすいむたん)は、井上靖による長編小説、またそれを原作とした1992年公開の日本映画である。 大黒屋光太夫をはじめとする、漂流した神昌丸の乗組員17人の運命を、日露の漂流史を背景に描き出した歴史小説で、『北槎聞略』などを参考に書かれているが、この小説が書かれた当時は、帰国後の光太夫らが故郷に一時帰郷できたことや比較的自由に江戸で生活していたことは、まだ判明していなかった。そのため光太夫らは帰国後、幽閉同然に扱われたことになっている。井上は後年に関係者から帰国後の光太夫の資料を提供されたが、結局作品を改訂することはなかった。1966年から1968年にかけ『文藝春秋』に掲載され、文藝春秋から刊行(のち文春文庫)。日本文学大賞受賞、映画化の際に徳間文庫でも刊行された。 映画のロシア語題名は『Сны о России』(ロシアの夢)、英語題名は『Dreams of Russia』、または『O-roshiya-koku-sui-mutan』。 あらすじ天明2年12月(1783年1月)、伊勢を出発し、光太夫ら17人(船頭の大黒屋光太夫および作次郎、次郎兵衛、安五郎、清七、長次郎、藤助、与惣松、勘太郎、九右衛門、幾八、藤蔵、市蔵、小市、新蔵、庄蔵、磯吉)を乗せた船「神昌丸」は、江戸へ向かう途中に嵐に遭い、舵を失って漂流中に1人を失いながらも、8か月の漂流後に当時はロシア帝国の属領だったアムチトカ島に漂着した。この島で7人の仲間が次々と死んでいくが、残った9人は現地のロシア人の言葉やアムチトカ原住民の言葉を習得しながら帰国の道を模索する。漂着から4年後、現地のロシア人たちと協力し流木や壊れた船の古材を集めて船をつくり、カムチャッカ半島のニジネカムチャック(Nizhne-Kamchatsk)へ向かう。だがここで待っていたのは島とは比較にならない厳しい冬将軍で、さらに3人を失うのであった。 残った6人は、現地政庁の役人たちと共にオホーツクからヤクーツク経由でレナ川沿いにイルクーツクへと向かうが、1人が重い凍傷で片足を失ったため帰国が不可能と悟りロシアに帰化する。また、さらに1人が病死する。この地の政庁に帰国願いを出しても届かないことに業を煮やした光太夫は、当地に住んでいたスウェーデン系フィンランド人の博物学者キリル・ラックスマンの助けを借りて、ラックスマンと共に(漂流民としては1人で)、女帝エカチェリーナ2世に帰国願いを出すために、ロシアの西の端の帝都ペテルブルクへ向かった。数か月後、夏の宮殿でいよいよ女帝への謁見が決定した。 映画
大映(現:KADOKAWA)・電通製作、東宝配給により1992年に公開された。上映時間の制約などから、アムチトカ島からカムチャッカを経由せずいきなりオホーツクに到着することになっている等の経由地の省略や、女帝に謁見した当日には帰国が許されることになっている等のエピソードの省略がある。 スタッフ
キャスト
制作撮影1992年2月、北海道で島に緒形拳が漂着するシーンからクランクイン[2]。1991年のソ連崩壊の時期にロシアサンクトペテルブルク撮影所レンフィルムの協力のもと大規模ロケが行われた。メインスタッフだけ前年の冬から拘束され、先に冬のシベリアを体験した[2]。シベリアロケは気温がマイナス50度まで下がり、まつ毛も凍りツララが眼球に刺さる恐れがあるため、まつ毛を上げて撮影した[2]。当時は喫煙者が多かったが、ライターは使えなかった[2]。大映は一人あたり10数万円で防寒具を購入してくれた[2]。ロケは2年半にも及び、本作のプロデューサー・櫻井勉は1969年から映画テレビに関わり、『乱』や『敦煌』の撮影にも参加したが、本作ほど余裕のある形で映画が製作されたことは後にも先にもないと話している[2]。 当時のサンクトペテルブルク市長はアナトリー・サプチャーク、対外関係委員会議長がウラジーミル・プーチンであった。 刊行書誌
脚注参考文献
外部リンク |