稀音家浄観稀音家 浄観(きねや じょうかん)は、長唄三味線方の名跡。墓所は初代・二代ともに文京区護国寺。 初代稀音家 浄観(きねや じょうかん、天保10年5月5日(1839年6月15日) - 大正6年(1917年)8月28日) 本名は杉本観太郎。父は初代住田又兵衛。1853年11月に初代杵屋六四郎の門弟。1856年に中村座に出勤、杵屋四郎治を名乗る。1869年に大薩摩名浄観を家元より受ける。1870年11月に3代目杵屋三五郎の後継者で6代目杵屋三郎助を改名。1902年4代目杵屋勘五郎を襲名。1908年に稀音家浄観を名乗る。作曲に「晴天の鶴」がある。墓所は文京区護国寺。 実の子は2代目、孫に4代目杵屋六四郎、曾孫に5代目杵屋六四郎がいる。 二代目稀音家浄観(きねや じょうかん、1874年3月4日 - 1956年5月28日)文化勲章受章者。 東京市神田生まれ。初代の子。本名は杉本金太郎。1888年3代目杵屋六四郎を襲名、1926年「稀音家」と改姓。4代目吉住小三郎とともに長唄研精会を興し、芝居を離れた長唄演奏の確立へ道を開き、新曲発表会を開き、長唄音楽に貢献。1929年東京音楽学校に長唄の選科が開設され、小三郎とともに講師を務め、のち教授、1939年六四郎の名を長男に譲り、2代目浄観を襲名、1944年退官、1955年文化勲章受章、文化功労者。妻は柳橋「若松屋」の元芸妓[1]。墓所は文京区護国寺。 曲代表曲に「熊野」「横笛」「元寇」などがある。以下、他の作曲。
童謡
合作吉住小三郎との合作。
脚注関連項目 |