魏侈[1](ぎ し、生没年不詳)は、魏襄子(ぎ じょうし)ともいい、春秋時代の晋の卿。
魏侈は魏取(魏簡子)の子として生まれた[2]。魏取が死去すると、魏侈が後を嗣いで魏氏の宗主となった。魏侈は士吉射(范昭子)と仲が悪く、紀元前497年に智躒・韓不信らとともに定公を奉じて范氏・中行氏を攻撃した[3]。紀元前488年、魏侈は軍を率いて衛を攻撃した[4]。紀元前482年、魏侈は軍を率いて衛を攻撃した[5]。
脚注
- ^ 『史記』魏世家による。『春秋左氏伝』は魏曼多とする。名を「哆」や「多」とする史料も見られる。
- ^ 『史記索隠』魏世家所引『世本』による。『史記』魏世家は魏舒(魏献子)の子とする。
- ^ 『春秋左氏伝』定公13年
- ^ 『春秋』哀公7年
- ^ 『春秋』哀公13年