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青山吉次

 
青山吉次
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文11年(1542年
死没 慶長17年(1612年
別名 与三、佐渡(通称)
墓所 富山県魚津市天神山
官位 従五位下佐渡守
主君 織田信長前田利家利長
加賀藩
氏族 青山氏
父母 青山信昌
前田利長養女長寿院
長正
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青山 吉次(あおやま よしつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将前田氏の家臣。加賀藩青山家の祖。官位従五位下佐渡守

生涯

天文11年(1542年)、青山信昌の子として尾張国で誕生。15歳の時に織田信長に仕えた。その後は前田利家に仕え、寺西九兵衛前田利昌息女との子である長寿院[1]を正室に迎えた。

天正3年(1575年)、越前府中二十一人衆の一員として功績を称えられ1,000石を授かる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは前田利長に従い功績を挙げ、2,000石を加増された。その後も末森城の戦い八王子合戦などに利家に従軍。天正13年(1585年)、佐々氏とそれに与力した飛騨の姉小路氏(三木氏)が富山の役秀吉に降伏し、前田家に越中国三郡(砺波・射水・婦負)が与えられると城生城の守将となる。

文禄4年(1595年)には利長に残る新川郡が加増され、上杉家の越中衆(土肥氏・柿崎氏・舟見氏など)から郡内の諸城を養子の長正らと共に受け取る[2]文禄・慶長の役では利家に従い肥前国に行き、慶長3年(1598年)に従五位下佐渡守となる。慶長5年(1600年)に起こった大聖寺城の戦いの時、金沢城の守備にまわった。

慶長17年(1612年)6月に魚津で死去した。青山家の跡目は、前田利家から命ぜられて、養子の長正が継いだ。長正は、河尻秀隆芳春院の姪との娘であり、また吉次正室長寿院の妹[3]であった末守殿[4]と、織田信長に仕えて本能寺の変に殉死したその前夫浅野左近盛久浅野幸長の一族と考えられる)との子であった。吉次・長正の墓は天神山にある。青山家は長正の後、三代目正次、四代目吉隆、五代目長重、六代目長貞[5]、七代目聚次、八代目勇次、九代目知次[6]、十代目成次、十一代目悳次と明治維新まで代々続いた。青山家の菩提寺は元々は富山県魚津市馬出町の浄土真宗本願寺派興隆山照顕寺であったが、三代目正次のときに元和元年一国一城令に基づく魚津城廃城に伴う青山家の金沢移転があり、以後、青山家は金沢市野町の曹洞宗興月山全昌寺を菩提寺とした。ただし、魚津に元々あった吉次・長正の墓と位牌については、これまでと同様、照顕寺で預かることとなり、青山家は度々魚津へお参りに訪れ、金沢移転以後も、青山家と照顕寺との縁は続くこととなった。

なお、長正室となった山崎長徳[7]は四人男児(長男正次、次男俊次、三男長鏡、四男宗長)を産み、長男正次は父長正後嗣となるも幼い息子吉隆を残して早世、次男俊次が分家として青山本家の後嗣吉隆後見になるも、吉隆齢十四の年、俊次から青山本家へ青山家伝来の武器銃器引き渡しの際に俊次が返却を渋り、吉隆の世話役となる青山家の家老早崎と諍いになり、俊次が早崎を手打ちにする事態が起き、吉隆が公に俊次の所業を訴え、俊次は能登富木へ流刑に処せられ、俊次の立てた分家は絶家となった。三男長鏡は、外祖父山崎長徳の養子となって初代山崎庄兵衛長鏡となり、長鏡の長男は二代目山崎庄兵衛(但し病死により絶家)、次男(本来は三男。長鏡二男宗次は長鏡の弟の四男青山宗長の養子となった。)は大聖寺藩山崎権丞家の初代山崎権丞となった。四男宗長は、分家して加賀藩に仕え、その働きぶりが認められて人持組に取り立てられた。

系譜

関連項目

脚注

  1. ^ 婚礼前に前田利長養女となる。
  2. ^ 蒲生騒動(利家や景勝も大老として調停)に伴う上杉家の東蒲原と新川の交換による。「加賀藩文書」(前田育徳会など)に加増や城の受け取りを記した記録あり。
  3. ^ 婚礼前に前田利長養女となって、同じく利長養女長寿院と義理の姉妹となった。
  4. ^ 芳春院の生母竹野氏は夫篠原一計との死別後に高畠直吉のもとへ再嫁し、直吉嫡男吉光を産んだ。竹野氏娘芳春院と直吉嫡男吉光とは異父姉弟である。吉光には嫡男定吉と娘とがあり、娘は河尻秀隆に嫁いで、後に末守殿となる娘を産んだ。
  5. ^ 『加賀藩史稿』の「青山宗長」の項には、青山豊後長正四男青山織部宗長には子がなく、兄の山崎庄兵衛長鏡の二男勘左衛門宗次を養子とするも、宗次は子の長貞を遺して早世したため、宗長の後は長貞が継ぐも、ちょうど青山本家では時の五代目当主長重に子が無かったため、請われて長貞が分家と本家とを統合する形で青山本家の六代目当主になった、とある。
  6. ^ 青山淇水(1779-1848)(あおやま・きすい)は安永8年生まれ。加賀藩士。青山土佐守吉次・豊後守長正家当主。名は知次、通称は与三、将監。別号に碧鮮堂、清陰亭がある。定火消、御仏殿火消、奏者番、寺社奉行兼公事場奉行を経て、家老兼近習御用となった。文化期以後は、海外事情に関心を注いで学者を保護し、器械を購入した。文事を好み、専ら墨竹を描き、個性的な墨竹画を得意とした。嘉永元年、70歳で死去した。
  7. ^ 婚礼前に前田利長養女となる。

出典

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