軽井沢宿軽井沢宿(かるいさわしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。 概要現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2~3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。 明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。 災害天明3年の浅間山の大噴火浅間山は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山である。天明3年(1783年)に浅間山は大噴火(天明大噴火)を起こした。4月に活動を再開し7月まで噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けた。浅間山の天明噴火の中山道筋での被害は軽井沢宿から桶川宿まで4月から7月までの長期にわたり、火山礫、火山砂、そして火山灰などによるものであった。その被害の大きさは、大角(1975)にて説明されている[1]。
中山道筋のなかで、この噴火による家屋の被害が最も大きかったのが軽井沢宿であった。噴火による火石玉、火山灰の降落により、家屋の焼失・全壊・半壊および草木や農産物の全滅があった。また、降灰及び大雨による土石流による被害もあった[2]。軽井沢宿は浅間山の噴火による被害が最も大きかった地域である。『軽井沢町誌(歴史篇)』によると、天明噴火による軽井沢宿の状況とその被害が記述されている。
隣の宿史跡・みどころ軽井沢宿までの史跡・みどころ 最寄り駅脚注参考文献
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