西蔵旅行記『西蔵旅行記』(チベットりょこうき)とは、1904年(明治37年)に出版された河口慧海の主著の1つ。戦後に改訂再刊された版では『チベット旅行記』表記となっている。 河口慧海がチベットへと行くことになった理由・経緯(1891年(明治24年)~1897年(明治30年))と、実際にチベットへと行って帰ってくる6年弱に及ぶ道程の記録(1897年(明治30年)6月26日~1903年(明治36年)5月20日)がまとめられている。 日本語出版から5年後の1909年(明治42年)には、英語版が神智学協会から『Three Years in Tibet(スリーイヤーズ・イン・チベット)』のタイトルで出版された。 構成序文によると、時事新報と大阪毎日新聞に(『西蔵(チベット)探検記』の名で[1])連載していた内容をまとめたものであり、以下の155の章(回)に分かれる。
内容
第二回チベット旅行記河口慧海の11年弱に及ぶ2回目のインド・ネパール・チベットへの渡航(1904年(明治37年)10月11日~1915年(大正4年)9月4日[2])における、チベット関連の記録は、東京朝日新聞にて1915年(大正4年)9月10日から「入蔵記」として22回連載され、また『東方仏教』には「雪山歌旅行」が1926年(大正15年/昭和元年)7月から1927年(昭和2年)12月まで連載された[3]。 戦後の1965年(昭和40年)春に、九品仏浄真寺にて関係者が河口慧海生誕百年を記念して石碑を建てる行事を行い、その際に河口慧海の業績を刊行・紹介していくことを目的とした「河口慧海の会」が結成され[4]、この会によって上記の連載内容がまとめられ、『第二回チベット旅行記』の名で1966年(昭和41年)に刊行された。 知り合いが投獄されたまま逃亡する形になってしまった第一回目の『チベット旅行記』の後日談的な内容も含まれている。 構成
内容
出版
脚注外部リンク |