西村進一
西村 進一(にしむら しんいち、1919年12月30日 - 2006年11月13日[1])は、京都府京都市[2]出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。旧姓は木村(きむら)。 来歴・人物平安中学校では遊撃手として、1936年の第13回選抜中等学校野球大会から1938年の第24回全国中等学校優勝野球大会まで6季連続で甲子園に出場した。 中学卒業後に立命館大学へ進み、1939年に大学を中退して名古屋軍へ入団[2]。実働は4年ながら1941年と1942年は内野手の準レギュラーとして活躍した。 1942年10月に召集され、戦地であるラバウルに渡った[2]。1945年に誤って砲弾を逆に持ったため暴発し、右手首を失い選手生命を絶たれた[2]。 1948年から指導者として母校である平安高校の監督に就任[2]。義手にボールを乗せて、左手1本でノックするなどの熱血指導で有名だった[1]。1951年には第33回高校野球選手権で優勝を果たした[2]。1951年、西村に改名。 平安高校退任後は、扇町高校、岸和田高校の監督を経て、龍谷大学硬式野球部監督に就任[2]。関西六大学野球連盟昇格や初のリーグ優勝へと導く。1971年には金沢市の社会人野球チーム・西川物産の監督に就任[2]し、第42回都市対抗野球大会及び第44回都市対抗野球大会に出場。1975年、大阪産業大学監督に就任し[2]、1982年まで務めた。 詳細情報年度別打撃成績
背番号
脚注関連項目外部リンク
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