蠣崎蔵人の乱蠣崎蔵人の乱(かきざきくろうどのらん)とは、室町時代、宇曽利郷田名部の蠣崎城主蠣崎蔵人信純による南部氏に対する反乱。別称 田名部乱。 安東政季、蠣崎蔵人については、諸書に記載されることがまちまちであるが、しかし、八戸と三戸南部氏の連合軍による反撃により形勢が不利となり、首謀者である蠣崎蔵人も蝦夷地(北海道)に逃れることになる。 概要八戸家伝記康正3年 (1457年)春、陸奥国北郡田名部の領主蠣崎蔵人がその居城(蠣崎城)によって乱をおこし、八戸南部家では、勅命を奉じて、2月25日八戸湊を出帆して田名部湊に船を着け、蠣崎城を攻撃しこれを攻略したという。追討後に一族新田盛政を城代として留守せしめ、これによって田名部3,000石は八戸家の所管になった。 その戦功を賞した際の奥州深題大崎氏の一族である山科教兼の任官推挙状である康正3年卯月21日付左衛門佐花押状20通は、八戸家・新田家・中館家に所蔵[1]されている。 公国史『青森県史』が引用する『公国史』において[2]は、境界を越えた獲物の取り合いに端を発し、地域の境界紛争に発展したものとされている。 東北太平記田名部乱の由来結果を記述したもので、『田名部御陣日記』がある。 護良親王の王子良伊王は、正平3年(1348年)、蝦夷地を管する北地王に任ぜられ北部王家といわれ、南北合一後も足利氏に下らず南朝恢復を志したが、5代目義純に至り上洛して将軍足利義量に謁し従五位上民部大輔に任官した。北奥の占有に野心を抱いていた重臣蠣崎蔵人信純の陰謀にかかり、王族一統が害された。擾乱を中央の許しを得て南部(八戸)政経が平定した。として、その資料と史実の真偽は明瞭にし難い。 沿革
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