蠣崎吉広
蠣崎 吉広(かきざき よしひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。吉広系蠣崎家初代。 生涯蠣崎季広の九男で、松前慶広の弟[1]。吉広は兄・慶広の仮養子となり、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉に、慶長5年(1600年)に徳川家康に拝謁している[2]。この家康に拝謁した年から慶広の居城・松前城(福山館)の築城、城下町の建設に協力した[2]。慶長19年(1614年)、流罪に処されていた花山院忠長が赦免された際、吉広が忠長を京都まで送り届けた[2]。 後に慶広との仮養子関係は解消されたが、慶広から公広、氏広と3代の藩主を補佐して松前藩の藩政も担当し、歴代藩主から厚い信任を受けた[2]。 吉広の子孫はその後、松前藩の重臣として藩政に関与した[2]。なお、江戸時代中期の風俗画家として有名な蠣崎広年(蠣崎波響)は、家系上は吉広の子孫である(実際は8代藩主・松前資広の五男のため、血縁関係は無い)[2]。 系譜
脚注注釈出典参考文献
|