藤原家宗
藤原 家宗(ふじわら の いえむね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、参議・藤原真夏の孫。民部少輔・藤原濱雄の長男。官位は従三位・参議。 経歴承和年間に文章生となり、仁明朝末の承和15年(848年)勘解由判官に任官する。文徳朝に入り、嘉祥3年(850年)惟仁親王が春宮に立てられると春宮少進に任ぜられ、斉衡元年(854年)には蔵人を兼ねる。斉衡3年(856年)40歳にしてようやく従五位下に叙爵され、翌天安元年(857年)右少弁に任ぜられた。 天安2年(858年)惟仁親王の即位(清和天皇)に伴って従五位上に叙せられると、貞観3年(861年)右中弁、貞観5年(863年)正五位下・左中弁、貞観8年(866年)従四位下、貞観11年(868年)従四位上・蔵人頭、貞観12年(870年)右大弁と、清和朝に入ると弁官を務めながら順調に昇進を果たす。また貞観8年(866年)に発生した応天門の変においては、応天門放火の嫌疑により左大臣・源信の邸宅を囲んだ遣使に対して、清和天皇の勅令を受けて左中弁として参議兼右大弁・大江音人とともに慰諭を行い、源信の嫌疑を晴らしている[2]。貞観13年(871年)には参議に任ぜられ公卿に列した。 清和朝後半は議政官として左右大弁を兼帯し、貞観17年(875年)には正四位下に叙されている。貞観19年(877年)正月に行われた陽成天皇の即位に伴う叙位にて従三位に至るが、同年2月10日薨去。享年61。最終官位は参議従三位行左大弁。 伝領地である山城国宇治郡日野村(現在の京都府京都市伏見区)に、弘仁13年(822年)法家寺を建立して最澄自作の薬師如来の小像を祀ったという伝承がある。 官歴注記のないものは『六国史』に基づく。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献 |