若湊祐三郎若湊 祐三郎(わかみなと すけさぶろう、1861年12月6日(文久元年11月5日) - 1920年9月21日)は、石川県能美郡(現小松市)出身で始め富士ヶ根部屋、伊勢ノ海部屋を経て高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は村田 竹松(むらた たけまつ)一時期岡島姓を名乗ったことがある。最高位は関脇。現役時代の体格は169cm、90kg。得意手は突っ張り[1]。 人物1888年に入幕。関脇を4場所、小結を6場所務めるなど、17年もの長きにわたり幕内上位を維持。小錦とは大相撲を展開して相撲場を札止めにする人気だった。1893年1月からは東方に回り、小錦、朝汐などと大戸平、大砲、鳳凰、荒岩などの強豪と対決した。1902年(明治35年)5月には40歳ながら当時大関であった2代目梅ヶ谷を倒す殊勲を挙げた。立合い「ヨイショコラ」の掛け声を発し、猛突っ張りを武器とした[1]。1904年1月、余力を残し42歳で引退。富士ヶ根部屋を興し、若湊らを育てる。 1903年頃、千賀ノ浦(大達)が「元気なのには感心するよ。その昔下駄を持って、稽古場を駆け回ったお陰だ。今の若い奴らはどれもこれも怠惰者ばかりだ。」と称えていた。 略歴主な成績
年寄
参考文献脚注関連項目 |