糸賀一雄糸賀 一雄(いとが かずお、1914年3月29日 - 1968年9月18日)は、日本の社会福祉の実践家。 知的障害のある子どもたちの福祉と教育に一生を捧げた。戦後日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られ、「社会福祉の父」とも呼ばれる[1]。 経歴鳥取市立川町出身[1]。母子家庭で育つ。旧制鳥取県立鳥取第二中学校(現・鳥取県立鳥取東高等学校)から旧制松江高等学校(現・島根大学)を経て、1938年京都帝国大学文学部哲学科卒業[1]。 小学校の代用教員を経て、1940年滋賀県庁に社会教育主事補として奉職し、秘書課長などを歴任する。 また、この間に教育哲学者の木村素衛や、『次郎物語』の作者である下村湖人と親交を結び、下村の提唱する「煙仲間」運動にも共鳴する[2]。 1946年11月、戦後の混乱の中で池田太郎、田村一二の要請を受け、戦災孤児を収容するとともに、知的障害児の教育を行う「近江学園」を創設し、園長に就任。 子どものなかには職員の同情を買うために戦争孤児を偽っていたことや当時、大津市で米兵相手の商売をしていた女性が産んだ混血児がいたことも判明している[3]。 その後、落穂寮、信楽寮、あざみ寮、日向弘済学園などの施設を相次いで設立した。糸賀は、これらの施設について障害者を隔離収容するのではなく、社会との橋渡し機能を持つという意味での「コロニー」と呼んでいる[4]。 そして、1963年重症心身障害児施設「びわこ学園」を創設した。 この施設は、東京の島田療育園と並んで、重症心身障害児施設の先駆けとなった。 1966年には、二つめの重症心身障害児施設である第二びわこ学園を設立した。 1968年(昭和43年)9月17日、滋賀県大津市での県新入職員のための講演中に持病の心臓発作により倒れ、翌日死去した。享年54歳だった。葬儀は滋賀県葬で営まれ、天皇から祭粢料が下賜された。 伝記として、野上芳彦『糸賀一雄』(大空社)や、高谷清『異質の光-糸賀一雄の魂と思想-』(大月書店)などがある。 著書
糸賀一雄著作集(全3巻)が、1982-83年にNHK出版から刊行されている。 参考文献
その他
脚注
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