粟屋 元通(あわや もとみち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣。
生涯
粟屋元秀の子である粟屋元宗の子として誕生。弟に粟屋(豊島)就信がいる。
天文6年(1537年)に元服し、毛利元就から偏諱を受けて粟屋元通と名乗る。天文17年(1548年)の備後国神辺城攻めに出陣したのを初め、天文24年(1555年)からの防長経略における下松への侵攻や須々万沼城の戦い、永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)にかけての伊予攻めなどで活躍した。それらの功績により、周防国岩国の代官も務め、元亀3年(1572年)の毛利氏掟内でも年寄衆として確認できる。宇喜多氏との戦いにも参加し、桂就宣らと共に備中国飯山城の守将となった。城下の宝妙寺[1]阿弥陀堂に天正9年巳5月吉日付の当時の落書きが残されている。
毛利元就の勧請によって創建された鳴石山八幡神社を天文2年(1533年)に再建。その際に寄進したと思われる獅子頭が現存している。
天正13年(1585年)に家督を嫡子・元定に譲り、慶長12年(1607年)に死去。
年表
和暦
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西暦
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日付
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内容
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出典
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不明
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粟屋元宗の子として生まれる。
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天文6年
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1537年
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11月15日
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毛利元就の加冠を受けて元服。「元」の字を与えられて、粟屋元通と名乗る。
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天文17年
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1548年
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6月23日
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備後国神辺城攻めにおける武功により、毛利隆元から感状を与えられる。 なお、元通はこの時の戦で負傷している。
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萩藩閥閲録巻74
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天文19年
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1550年
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安芸国下吉田において6段、下野ヶ原において1町5反を与えられる。
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天文23年
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1554年
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10月28日
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10月25日の安芸国伴田での戦における武功により、毛利元就・隆元連名の感状を与えられる。
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萩藩閥閲録巻74
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天文24年
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1555年
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この年より始まる防長経略に従軍。
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12月29日
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毛利隆元より縫殿允の官途を与えられる。
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萩藩閥閲録巻74
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弘治2年
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1556年
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4月28日
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3月13日の周防国中須、3月15日の周防国玖珂、3月18日の周防国鷲頭、 3月19日の周防国下松における武功により、毛利元就と隆元のそれぞれに感状を与えられる。
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萩藩閥閲録巻74
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永禄3年
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1560年
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安芸国山里津田において、30貫を宛行われる。
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永禄6年
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1563年
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8月2日
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父・元宗が78歳で死去。
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永禄10年
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1567年
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この年から翌永禄11年にかけての伊予攻めに従軍。
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元亀3年
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1572年
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毛利氏掟に年寄衆として加判。
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天正3年
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1575年
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2月9日
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毛利輝元より備後守の官途を与えられる。
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萩藩閥閲録巻74
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天正13年
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1585年
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家督を嫡子・元定に譲り、隠居。
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慶長12年
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1607年
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6月19日
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死去。
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脚注
- ^ 当時は法明寺。
出典
- 『萩藩閥閲録』
- 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社、1996年)