竹下慎太郎
竹下 慎太郎(たけした しんたろう、1971年7月10日 - )は、大分県大分市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。 来歴・人物プロ入り前小学4年の時に野球を始める[1]。大分工業高時代の甲子園出場はならなかったが、3年夏の大分県大会でベスト8入りを果たした。エースピッチャーだが当時の背番号は3だった[1]。 高校卒業後は、社会人野球の三菱自動車川崎に入社するが退団[1]。その後、郷里の大分に戻り、クラブチームの大分硬式野球倶楽部で野球を続けた[1]。 右足を高く上げて始動するフォームから、140km/hを超える速球と「まともに打たれたことはない」と豪語するほどの切れを誇るスライダーを投げ下ろした。年を追って制球力も安定し、大分硬式野球倶楽部の左腕エースとして活躍した。自チームでの都市対抗野球大会出場は叶わなかったが、1999年と2000年には三菱重工長崎の補強選手として出場し、それぞれ準優勝、ベスト8に貢献した[1]。 また、三菱自動車川崎時代にも同大会で登板している。 2000年のプロ野球ドラフト会議で横浜ベイスターズから8位指名を受け、29歳・妻子連れでの入団を決めた[1]。29歳4ヶ月でのドラフト指名は市村則紀(30歳5ヶ月)に続く高齢入団として話題となった[1]。この年のドラフト1位・内川聖一は高校の後輩であり、チームメイトとなった。 プロ入り後8位指名ながらも即戦力として期待され、中継ぎ・ワンポイントリリーフとして多く起用された。また、プロ入りの際に左打者対策として投球フォームをスリー・クォーターにしたのも吉と出た。 1年目の2001年には53試合、翌2002年も44試合に登板した。読売ジャイアンツの松井秀喜とは相性が悪く、2年間で15打数7安打5本塁打と苦手にしていた。 しかし、2003年は監督交代に自身の怪我も重なって登板数が激減し(14試合)、同年オフに金銭トレードで阪神タイガースに移籍した。 翌2004年は一軍昇格ならずまたも故障し、再度の一軍登板を果たせぬまま10月6日に戦力外通告を受けた[2]。 引退後2006年から横浜のスカウト(九州担当)を務めたが、球団の常駐スカウトを置かないという方針転換を受けて2007年オフに退団。 退団後は福岡市内で治療院を経営している[3]。また、2015年春から西南学院大学野球部の投手コーチに就任した[3]。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注関連項目外部リンク
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