神保茂明
神保 茂明(じんぼう しげあきら[1])は、江戸時代前期の旗本。初名は茂安(しげやす)、茂武(しげたけ)[1]。通称は大学、左京[1]。号は一洞、法名は心厳[1]。神保相茂の子[1]。妻は松平正綱の娘、後妻は松平重則の娘[1]。子は元茂、茂知、ほか女子2人[1]。 略歴元和元年(1615年)に大坂夏の陣で父・相茂が戦死した[1]。茂明と外祖母(杉若無心の室)は共に、本多正信に連れられて父の戦死を言上した[1]。その後駿府に呼び出され、日光東照宮の父の墓に参っている[1]。次に江戸に移り住み、徳川秀忠に仕えた[1]。寛永2年(1625年)には7000石を賜った[1]。寛永11年(1634年)に徳川家光が上洛した際は、あらかじめ京都へ上洛した[1]。寛永17年(1640年)には甲府城の守備を命じられ、しばらくこれに従った[1]。慶安3年(1650年)に大安宅船の修理奉行に指名され、寛文2年(1662年)にはこの修理の褒美として羽織を賜った[1]。天和2年(1682年)に致仕[1]。 元禄4年(1691年)に死去、享年81。江戸谷中の大行寺に埋葬された[1]。大行寺は以降、大身旗本神保氏の菩提寺となる[1]。 脚注参考
|