石谷清豊
石谷 清豊(いしがや きよとし)は、江戸時代中期から後期の旗本。 生涯田沼意誠の五男であったが、石谷清定の娘を妻として、清定の跡を継いだ。天明4年(1784年)11月18日、14歳の時に御小納戸となった。同年12月16日、布衣の着用を許された。天明5年(1785年)9月21日小姓となり、天明6年(1786年)徳川家治薨去に伴い、同年閏10月7日御小納戸に復帰し、天明8年(1788年)4月1日御小姓となり、寛政3年(1791年)12月16日従五位下・周防守に叙任された。寛政6年(1794年)2月25日御使番となったという。寛政9年(1797年)7月13日に駿府目付代となり、享和2年(1802年)1月21日に火事場見廻を兼務し、享和2年(1802年)10月8日に西丸目付となった。享和3年(1803年)12月23日に本丸目付に転じ、文化6年(1809年)4月29日には田安徳川家の家老となった。文化14(1817年)1月11日には大目付分限帳改となったという。 石谷清豊の跡に息子の石谷直吉(清香)が旗本となっているが、部屋住みのまま没したとされる。石谷清豊の家督は、息子である石谷左内が継いだ様子である。なお、左内が下記した子女のうちの誰かは不明である。 子女
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