矢野音三郎
矢野 音三郎(やの おとさぶろう、1888年(明治21年)6月29日 - 1950年(昭和25年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 経歴山口県出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業した。 1923年(大正12年)8月、教育総監部課員となり、歩兵第80連隊付、陸大専攻学生、陸軍歩兵学校付、第10師団参謀などを歴任し、1934年(昭和9年)3月、歩兵大佐に昇進し関東軍司令部付となった。 1934年8月、歩兵第49連隊長となり、歩兵学校教官を経て、1937年(昭和12年)8月、支那駐屯軍参謀副長として日中戦争に出征。次いで第1軍参謀となり、1937年(昭和12年)12月、陸軍少将に進級。1938年(昭和13年)3月、第8国境守備隊長に就任し、翌年、関東軍参謀副長の立場でノモンハン事件を迎える。その後、参謀本部付、鎮海湾要塞司令官、北支那派遣憲兵隊司令官を歴任し、1940年(昭和15年)8月、陸軍中将に進んだ。1941年(昭和16年)6月、駐蒙軍隷下の第26師団長に親補され太平洋戦争を迎えた。 1942年(昭和17年)4月、陸軍公主嶺学校長となり、同年7月、教育総監部付を経て、1943年(昭和18年)8月に予備役編入となった。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。 栄典
脚注参考文献 |