甲府徳川家
甲府徳川家(こうふとくがわけ)は、江戸時代の大名。甲府宰相家。甲斐国甲府藩主家(甲府城主)。25万石(後に35万石)徳川将軍家の一支系で、4代将軍・家綱の弟・綱重とその子・綱豊(後の将軍・家宣)の2代を指す。単に甲府家ともいわれる。 近世甲斐国と甲府徳川家の成立甲府徳川家は江戸幕府3代将軍・徳川家光の三男・綱重を家祖とする。家格は親藩。石高は25万石。 近世甲斐国は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡・本能寺の変による無主状態となり、天正壬午の乱を経て徳川家康が確保する。その後、豊臣政権時代には豊臣系大名が配置され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐一国が幕府直轄領となる。甲斐支配は甲府城代や四奉行・初期代官により行われた。慶長8年(1603年)には家康の子・五郎太(徳川義直)が、元和2年(1616年)には将軍秀忠の子である忠長が甲斐を拝領したが、いずれも自身は在国せず城代・代官衆によって在地支配が行われた。寛永9年(1632年)に忠長が改易されると甲斐は城番制(第二次甲府城番制)による支配となる。 慶安4年(1651年)、徳川綱重(左馬助)の兄・家綱が将軍職に就任すると、綱重は弟の綱吉(右馬助)とともに厨領として6か国で都合15万石を拝領し、この中に甲斐の所領が含まれる[2]。寛文元年(1661年)に綱重は10万石を加増され甲府城を城地に賜り甲府藩が立藩された。ここに甲府徳川家は独立した大名となる。 甲府徳川家の所領と石高「甲府殿御領地割」(『山梨県史』資料編8近世1領主 - 645号)によれば、綱重領の内訳は府中領として甲斐巨摩郡・山梨郡の14万石5000石、江戸屋敷地近郊で保持する鷹場のあった武蔵国羽生3万1000石のほか、駿河国に6000石、近江国に3万石、信濃国に3万7000石の飛び地があり、これら賄い領を合わせて都合25万石となる。 また、甲斐国には中世以来の土豪的性格を維持する旗本領が散在していたが、寛文元年に甲斐の旗本領は上知され、旗本らは関東各国に分散され居館も取り払われた。これは幕府による旗本の自立的性格を否定することを意図したものと考えられている[3]。 甲府徳川家の廃絶綱重は甲府に在国したことはなく、江戸桜田邸に居住したので「桜田殿」と通称された。甲府徳川家の甲斐支配は、家老衆に城番制時代の代官衆を加えて行われていた。綱重と綱吉は常に同等の加増や叙位叙任を経ており、綱重の甲府徳川家は綱吉の館林徳川家とともに御両典(「典」は典厩、すなわち左馬頭の唐名)として、御三家に次ぐ高い家格をもっていた。 延宝6年(1678年)に綱重が死去すると、綱重長男の綱豊が二代藩主となる。綱豊も綱重と同様に甲府に赴くことはなく、御浜御殿に居住した。宝永元年(1704年)、綱豊は男子のない五代将軍徳川綱吉の世子となり、家宣と改名して江戸城西之御丸に入る。ここに甲府徳川家は当主が一度も国入りしないまま2代で廃家となり、甲府徳川家の家臣団は幕臣として再編成された。入れ替わりに甲府には綱吉の寵臣で大老格の柳沢吉保が15万石で入っている。一方、家宣の実弟である松平清武は家宣が将軍世子となった3年後の宝永4年(1707年)に大名に取り立てられるが、2万4000石で入部したのは甲府ではなく綱吉の旧領である館林だった。この越智松平家は幾度かの転封を経て石見浜田藩主となり、明治維新まで続いている。 甲府徳川家の家臣団と施策甲府徳川家の家臣団には間部詮房や新井白石らがおり、書上には元禄8年9月『甲府様御人衆中分限帳』[4]、元禄16年8月宝永元年12月推定『甲府殿御分限帳』[5]、田安徳川家所蔵『甲府黄門侍郎様臣下録』[6]などがある。 甲府徳川家家臣団には内部紛争が多く、寛文元年(1670年)には、家老職の大田吉成(壱岐守)・島田時郷(淡路守)両名が綱豊継嗣を排除して綱重乱心を訴える綱豊継嗣事件が発生しており、大田・島田両名は家老職を解任され毛利家に預りとなっている[7]。 甲府徳川家による甲府藩政期には寛文4年(1664年)から元禄年間に検地が実施されているが、甲府徳川家は課税強化を行い延宝2年(1674年)には甲府城番と代官側の抗争も発生している。万治元年(1660年)1月の甲府城下での大火後の復旧や甲府上水の整備、徳島堰をはじめ朝尾堰・楯無堰など用水堰の開鑿による新田開発が実施された。 関係資料甲府徳川家に関する家政・藩政史料などの文書群や日記類は綱豊の将軍就任に伴い幕府へ移管されたものと考えられており、その大半の所在は不明だが、部分的に山梨県内や国立公文書館内閣文庫に残されている。 甲府徳川家に関する日記類は享和3年(1803年)に勘定奉行中川忠英による筆写の「甲府日記」が部分的に伝存している他『甲府御館記』・『人見私記』などがあり[8]。江戸城の紅葉山文庫には『桜田御殿日記』468冊が架蔵されていたと言われるが[9]、その後江戸城は幾度かの火災に見舞われており、今日その原本の所在や実在は不明となっている。 歴代当主参考文献
出典・補注 |