田村浩田村 浩(たむら ひろし、1894年(明治27年)5月23日[1][2] - 1962年(昭和37年)12月3日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・戸倉。 経歴広島県出身[1][2][3]。戸倉浩夫の二男として生まれ、左官職・田村直蔵の養子となる[1]。ホノルル小学校、広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる[1][4]。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業[1]。1921年(大正10年)4月から翌年3月まで、東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ[1]。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し野砲兵第6連隊中隊長に就任[1][2][3]。 1928年(昭和3年)6月、参謀本部付勤務となり、同年10月から1931年(昭和6年)12月までフィリピンに潜入した[1]。その後、参謀本部付、野戦重砲兵第1連隊大隊長、台湾軍参謀、タイ公使館付武官、参謀本部付(香港駐在)などを務め、 1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に進級[1][3]。同年9月、第21軍報道部長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1939年(昭和14年)8月、タイ公使館付武官に再任された[1][3][3]。 1942年(昭和17年)2月、参謀本部付となって帰国し、同年4月、陸軍野戦砲兵学校教官に就任し、同年8月、陸軍少将に昇進して同校付となる[1][2][3]。同年1941年12月、第12砲兵団長に発令され満州に赴任[1][2][3]。1944年(昭和19年)5月、関東防衛軍参謀長に転じた[1][2][3]。同年10月、西部軍司令部付となり帰国[1][2][3]。同年11月、俘虜情報局長官に就任し、1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進級した[1][2][3]。同年11月、俘虜調査部付となり、同年12月に復員[1]。 1946年(昭和21年)4月、A級戦犯容疑者として逮捕され巣鴨プリズンに入所[1]。同年5月、召集解除となる[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。1949年(昭和24年)2月9日、GHQ裁判の判決で重労働[注 1]8年の有罪となり[6]、1951年(昭和26年)12月に仮出所となった[1]。 栄典
脚注注釈
出典
関連項目
参考文献
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