猿投神社
猿投神社(さなげじんじゃ)は、愛知県豊田市にある神社。式内社、三河国三宮で、旧社格は県社。猿投山の麓に鎮座する。 祭神
※ ただし大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説があった。元々は猿投山の神を祀ったものとみられる。 歴史創建『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。 社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建されたという。 概史国史の初見は、『日本文徳天皇実録』の仁寿元年(851年)10月7日条、従五位下の神階を授けるという記述である。『延喜式神名帳』では「参河国賀茂郡 狭投神社」と記載され、小社に列している。また、三河国の三宮とされたという。建治元年(1175年)には最高位の正一位に達した。 天文3年(1534年) 6月22日、松平清康によって攻撃され、9つの堂塔が焼失。その後、梅坪城主の三宅氏や那須氏などが再建した。 永禄4年(1561年)に織田信長が三河の高橋荘を支配下に入れると、猿投神社を保護した。 明治5年(1872年)9月、近代社格制度において県社に列格し、式内社・広沢天神社などを合祀した(広沢天神社は後に分祀し摂社となった)。国幣小社への昇格が内定していたが、昇格される前に第二次世界大戦終戦により社格制度廃止となった。 神階表記はいずれも「狭投神」。
信仰古来より「左鎌」を奉納して祈願する習慣がある。由来は不詳であるが、古老の伝によれば、双生児は一方が左利きであり、祭神・大碓命は小碓命(日本武尊)と双生児であったので左利きであるとされ、大碓命が当地の開拓に使ったであろう左鎌が奉納されるようになったという。現在では、左鎌をかたどった板が奉納されている。 毎年10月には、愛知県指定無形民俗文化財棒の手が披露・奉納される。 境内猿投山の麓に本社、猿投山東峯に東宮、西峯に西宮がある。
摂末社
文化財重要文化財(国指定)
愛知県指定有形文化財豊田市指定有形文化財現地情報
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