牛島のどぶ(うしじまのどぶ)は、かつて富山県富山市牛島にあった沼である。
概要
富山駅開業前の牛島
近世の牛島においては、牛ヶ首用水を利用した稲作が行われていたが、1900年(明治33年)1月より着手された神通川の馳越工事によって牛ヶ首用水からの取水は切断され、以後はもっぱら富山市市街地の需要に応ずるべく畑によって蔬菜作りが行われるようになった[1][2][3]。この馳越工事は1903年(明治36年)5月21日に竣工し、新設の神通川馳越線には神通大橋が架橋された[4]。
1899年(明治32年)3月20日に北陸線高岡駅 - 富山駅間が開通し婦負郡桜谷村田刈谷に富山駅が開業したが[5]、この田刈屋に開業した富山駅は神通川改修工事の落成を待って設置された仮駅であって、将来においてより富山市に至近の地へ移転することが開業当初より見込まれていた[6]。この富山駅の移転先については上新川郡堀川村西中野等3箇所が候補地として論議されたが[7]、富山実業協会は『富山市経営策』において次のように論じ、婦負郡桜谷村の愛宕と牛島の間の地へ富山駅を建設するよう主張した[8]。
偖て現停車場の位置を進めて一層富山市に接近せしむるとせん乎其の位置は孰れにすべきは是れ或は一箇の疑問たるべしと雖も本協会の見る所を以てせば婦負郡愛宕村及牛島村の両村中央に設置するを以て最も可なりと信す抑も此の位置に就ては二箇の大なる利益あるが如し第一は交通運輸上の利益にして第二は水害除去上の利益とす
富山駅の建設工事
こうした富山市や地元経済界の主張によって富山駅の移転先は牛島村と愛宕村の間の地に決定され[9]、富山市は1907年(明治40年)1月24日に27017坪の敷地を駅建設のための用地として寄附した[10]。この頃の牛島は前述の馳越工事によって神通川本流と馳越線に挟まれた中洲のような状態になっており、停車場建設に必要な土盛りを行うための土砂調達により附近の田畑が掘り下げられることとなった[11]。当時の新聞は次のように富山駅建設の状況を報道している[12]。
此停車場の敷地は四万坪で其半分は寄附に係るものである、此四万坪の敷地に高さ平均十一尺の土を盛り其景は実に四万二千立坪の多きに達してゐる、本工事は第一工区に属して居つて昨年四月工事に着手し本年七月落成を告げた、本工事に要したる土は附近の田圃より掘上げたもので軽便軌条を以て運搬したのである、而して工事の最も盛んであつた時は軌条の長さ四哩以上に達しトロツコは百七十九輌に及んだ、実に近来稀に見る土工であつた
牛島のどぶの形成とその後
1908年(明治41年)11月16日に富山駅は移転開業したが[13]、この工事によって掘り下げられた跡はそのまま水が溜まって沼となって残った[11][3]。この沼は約1万4000坪の大きさを有し、附近住民は当初これを観光に利用するため湯屋兼料理屋の建設を計画したが、結局実現されることはなかった[11]。いつしか人々はこの沼を牛島のどぶと称するようになったが[11][3]、附近住民はこれを「汚名」として把握している[14]。
牛島のどぶは飛州木材の貯木場として利用されていた[15]。1945年(昭和20年)8月2日未明の富山大空襲においては、猛火を逃れようとした人々が多数飛び込んだが、直撃弾を受けて即死する者が多く血の沼と化したといわれる[16]。戦後に至ってもしばらく牛島のどぶは存在していたが、戦後復興過程の1948年(昭和23年)10月16日に埋立てが決定され[17]、また第13回国民体育大会が富山市において開催されることとなったことで、牛島地内には富山市体育館が建設されるなど開発が進み、昭和30年代にはその姿を消した[18][3]。埋立てには日曹製鋼や呉羽製鉄から出た鉱滓が用いられたという[19]。1958年(昭和33年)には牛島から富山駅北口に通じる道路が完成し、同年10月16日にはかつて牛島のどぶがあった場所に、富山駅北口が開設されている[20]。
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飛州木材の貯木場として用いられる大正時代の牛島のどぶ。
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1932年(昭和7年)当時の富山駅構内。写真左側に広がる沼が牛島のどぶ。
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1937年(昭和12年)当時の富山市の地図。富山駅北に牛島のどぶが描かれている。
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1946年(昭和21年)7月22日に米軍によって撮影された富山駅周辺の航空写真。富山駅北には牛島のどぶが写っている。
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1952年(昭和27年)11月9日に米軍によって撮影された富山駅周辺の航空写真。富山駅北には牛島のどぶが写っている。
脚注
- ^ 高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』(569頁)、2001年(平成13年)7月、平凡社
- ^ 富山県編、『富山県史 年表』(266頁)、1987年(昭和62年)3月、富山県
- ^ a b c d 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、『角川日本地名大辞典 16 富山県』(149頁)、1979年(昭和54年)10月、角川書店
- ^ 富山県編、『越中史料』第4巻(815より817頁)、1909年(明治42年)9月、富山県
- ^ 明治32年逓信省告示第90号(『官報』、1899年(明治32年)3月16日、内閣印刷局)
- ^ 草卓人編、『鉄道の記憶』(102及び103頁)、2006年(平成18年)2月、桂書房
- ^ 水間直二、『船橋向かいものがたり――愛宕の沿革』(80頁)、1989年(平成元年)4月、富山県の民衆史を掘りおこす会
- ^ 富山実業協会編、『富山市経営策』(203頁)、1901年(明治34年)11月、中田書店
- ^ 『週刊朝日百科 JR全駅・全車両基地』43号(10頁)、2013年(平成25年)6月、朝日新聞出版
- ^ 富山市編、『富山市史』(496頁)、1909年(明治42年)9月、富山市
- ^ a b c d 水間直二、『船橋向かいものがたり――愛宕の沿革』(89頁)、1989年(平成元年)4月、富山県の民衆史を掘りおこす会
- ^ 『富山日報』(1面)、1908年(明治41年)11月15日、富山日報社
- ^ 明治41年逓信省告示第1145号(『官報』、1908年(明治41年)11月16日、内閣印刷局)
- ^ 奥田郷土史編纂委員会編、『奥田郷土史』(145頁)、1996年(平成8年)4月、奥田郷土史刊行委員会
- ^ 飛州木材株式会社編、『飛州木材株式会社事業一覧写真帳』、1926年(大正15年)9月、飛州木材株式会社
- ^ 北日本新聞社編、『富山大空襲』(86頁)、1972年(昭和47年)3月、北日本新聞社
- ^ 北日本新聞社調査部編、『北日本年鑑 1961年版』(45頁)、1961年(昭和36年)2月、北日本新聞社事業局
- ^ 『博物館だより』第46号 - 2000年(平成12年)11月18日、富山市郷土博物館
- ^ 「筆者の住む富山市には、日曹製鋼および呉羽製鉄という二つの冶金工場があり、前者は鉱滓(これを業者間の特有語でノロという)を富山駅の裏口にある溜池に運びその埋立用に利用している」(引用元:新田隆信、「在日朝鮮人の業態点描――富山県のばあい――」、『親和』第45号(7頁)所収、1957年(昭和32年)7月、日韓親和会)
- ^ 富山市史編修委員会、『富山市史 第三巻』(768頁)、1960年(昭和35年)4月15日、富山市役所、768頁