無名戦士の墓 (ワルシャワ)無名戦士の墓 > 無名戦士の墓 (ワルシャワ)
ポーランドの無名戦士の墓(ポーランド語:Grób Nieznanego Żołnierza)は、ワルシャワにあるモニュメントで、ポーランドに命を捧げた無名戦士のための専用墓地である。第一次世界大戦後に建てられた多くの国立の無名戦士の墓の一つで、ポーランドで最も重要なモニュメントである[1]。 モニュメントは、ピウスツキ広場にあり、第二次世界大戦中に占領されたサスキ宮殿で唯一、破壊されずに残っている場所である。1925年11月2日以降、墓には1918年のレンベルクの戦いで戦死した若い兵士の身元不明遺体が納められている。その後、ポーランド兵士が戦った数多の戦場の土がサスキ宮殿で破壊されずに残っている柱の中にある瓶に納められている。 墓には常に永遠の炎が灯され、en:Representative Honor Guard Regiment of the Polish Armed Forces第一大隊の3個小隊による警備隊に支援されている。ポーランドで最も公式な記念式典が行われており、外国代表がポーランド訪問時に花輪を捧げている。 毎日、毎正時に警備員が交代して、1年365日行われている。 歴史1923年、サスキ宮殿と隣接のサスキ庭園の前に、無名のワルシャワ人のグループが、第一次世界大戦と後続のポーランド・ソビエト戦争で戦死した全てのポーランドの無名戦士を追悼する石の板を設置した。この先鞭は、一部のワルシャワの新聞とヴワディスワフ・シコルスキ将軍に取り上げられた。1925年4月4日、ポーランド陸軍省は、無名戦士の遺灰をワルシャワに運ぶべく、戦場を選定した。一部の40の戦いから、リヴィウの戦いが選ばれた。1925年10月、en:Cemetery of the Defenders of Lwów(リヴィウ)で、3つの棺が発掘された(身元不明の軍曹、伍長、二等兵)。ワルシャワに運ばれる予定の棺はpl:Jadwiga Zarugiewiczowaに選ばれた。彼女はen:Battle of Zadwórzeで戦死した兵士の母親で、兵士の遺体は発見されていなかった。 1925年11月2日、棺はワルシャワ聖ヨハネ大聖堂に運ばれ、ミサが行われた。その後、ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章の8人の受章者が、サスキ宮殿の2翼を繋ぐコロネードの下に穴を空けて、棺を納めた。棺の側には、数多の戦場の土が入った14個の瓶、ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章、記念碑が埋められた。その後、第二次世界大戦中のドイツによる占領下の時期を除いて、継続的に、栄誉礼が墓の前で行われている。 建築墓は、ポーランドで有名な彫刻家のスタニスワフ・カジミェシュ・オストロウスキーによりデザインされた。墓は、当時の国防省の所在地だった、サスキ宮殿の対称的な2翼を繋ぐアーケード内にあった。中央の銘板は、4つの永遠の炎と、第一次世界大戦からポーランド・ソビエト戦争(1919年–1921年)にかけてポーランド兵士が戦った戦闘の名前と日付が記載されている4つの石碑に、輪のように囲まれていた。墓の背後にはポーランドにおける2つの最高位の軍人章(ヴィルトゥティ・ミリターリ勲章、Cross of Valour)の紋章がつけられた2つの鉄格子があった。 1939年のポーランド侵攻で、ドイツの空爆による建物の損害は軽微だったが、ドイツ当局によりすぐに再建され、占領された。1944年12月、ワルシャワ蜂起の後に、宮殿はドイツ国防軍により完全に破壊され、唯一、墓を守る中央のコロネードの部分だけが破壊されずに残った。ドイツの工兵は宮殿全体を解体するように命じられたが、墓と記念碑が納められていた区画の解体は拒否した。現在の建物の両側にある、損傷したオリジナルの壁が、未だに証拠として存在している。 終戦後の1945年の後半に、復興が始まった。墓を含む、宮殿の狭い部分だけが、ヘンリク・グルンヴァルドにより復元された。1946年5月8日に一般公開された。第二次世界大戦でポーランド兵士が戦った戦闘の名前が記載された銘板と共に、追加で24ヶ所の戦場の土が瓶に入れられた。しかし、共産党政権により、1920年のポーランド・ソビエト戦争の全ての痕跡が消され、西側のポーランド軍の戦いがほんのわずかに残されただけだった。これは、ポーランドが政治的な自治を回復した後、1990年に修正された。 サスキ宮殿を再建する計画はあるものの、2016年6月の時点で、予算不足により、無期限に保留されている[要出典]。 石碑に現在取り上げられている戦いギャラリー
注釈
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