清原宣賢
清原 宣賢(きよはら の のぶかた)は、戦国時代の公卿・学者。従二位・吉田兼倶の三男。明経博士・清原宗賢の養子。官位は正三位・侍従。 経歴文明7年(1475年)吉田神社祠官神道家・吉田兼倶の三男として誕生。明経博士だった清原宗賢の養子として入る。 主水正・大炊頭・六位蔵人を経て、明応9年(1500年)従五位下に叙爵。明応10年(1501年)世職である少納言に任ぜられるとともに、直講を兼ねて宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して和漢にわたる著作をおこなう。大永元年(1521年)従三位に叙せられて公卿に列すとともに、20年に亘って務めた少納言から退いた。大永2年(1522年)侍従に任ぜられ、大永6年(1526年)正三位に至る。享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、大徳寺で出家・剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。 天文19年(1550年)7月12日に越前国一乗谷にて薨去。享年76。 業績国学者・儒学者として多くの著作があるが、そのなかでも各種の抄物(『職原私抄』『日本書紀神代巻抄』『伊勢物語惟清抄』等)は現在も多く伝わり、日本における古典研究の基礎資料となっている[2]。なお、清原家は四代後の秀賢から舟橋家を称したため、宣賢を船橋大外記宣賢と記した史料もある。 宣賢は自らの研鑽や講義手控の作成にあたって、先人の講義聞書や注釈を探求し、それを丁寧に書写したことで、一時代前の人々の口語が資料として残されることになった[2]。その作業で集めた先人の聞書や注釈書を自らの手控に取り入れる際に、宣賢は文語文体で簡略にまとめ直している[3]。そうした数多く残る宣賢の講義聞書は、日本語学史上において、貴重な口語資料群となっているが、いまだ未開拓の分野もある[4]。 官歴注記のないものは『公卿補任』による。
系譜尊卑分脈[6]によれば、幕府奉行人清貞春(筑後守)の養子清総昌(清四郎)は宣賢の子。また「吉田船橋家譜」[7]によれば、上記の妙佐はこの清四郎の子とする。 脚注参考文献
関連項目外部リンク
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