津軽信著
津軽 信著(つがる のぶあき)は、江戸時代中期の大名。陸奥国弘前藩6代藩主。官位は従五位下・出羽守。 生涯享保4年(1719年)2月27日、津軽信興(5代藩主・津軽信寿の長男)の長男として誕生。享保15年(1730年)、父・信興が早世したため、翌享保16年(1731年)1月22日、祖父・信寿の嫡孫となった。同年2月15日、8代将軍・徳川吉宗に御目見する。同年5月16日、信寿の隠居により、家督を譲られる。同年12月23日、従五位下・出羽守に叙任した。 相続当初は比較的裕福であった弘前藩の財政であったが、風雅趣味であった先代藩主・信寿の浪費に天災なども加わり、このころの藩財政は困窮気味であった。また信寿の浪費が幕閣に知れ渡り、浪費を嫌い倹約を推し進めていた将軍・徳川吉宗たちに先代の評判はあまり芳しくはなかった。信寿から13歳の少年への家督相続は、幕府からの懲罰とも伝えられている。 藩を継承した信著の治世期は不運にも、凶作・松前大島(渡島大島)噴火に伴う津波被害・数度の洪水、疫病の大流行、害虫の大発生、城下や青森町の大火、蝦夷地の有珠山の噴火の影響による群発地震、果ては領内大地震など、天災が相次いだ。被災した領民は困窮し、結果として藩財政も著しく悪化した。 藩政改革の断行藩の危機的事態を打破するためにも、信著および津軽藩は藩政改革を断行する。当初は13歳での相続でもあり、先代からの家臣や藩政をそのまま継承していたが、15歳ごろから家臣の入れ替えを行い、様々な改革に着手し始めた。改革の内容は倹約令や借米制度を中心とした、当時の幕府の方針に沿ったものであった。 藩政改革の内容方向性としては幕府の享保の改革のプランに沿ったものである。藩士には倹約令を出し、また正装の簡略化を命じて無駄を減らした。天災で困窮する農民に対しては、富豪から御用金を徴収して救済に当てた。城下に訴訟箱を設置して広く民間の意見を求める政策も行った。その他蘭学を中心とした文武を奨励するなど、倹約消極策だけではなかったが、これも吉宗の方策に近いものである。これは幕府におもねったわけではなく、全国的な当時の改革のスタイルだったと思われる。 藩政改革の頓挫延享元年(1744年)5月11日、弘前城下で大火が起こった。この直後の5月25日に信著が26歳で病死したため、藩政改革は一旦頓挫した。死後、家督は長男・信寧が継いだ。 系譜偏諱を受けた人物 |