槇 智雄(まき ともお、1891年(明治24年)12月12日 - 1968年(昭和43年)10月3日)は、日本の政治学者。専門は、イギリス憲法史・政治制度史。防衛大学校名誉教授。保安大学校長・初代防衛大学校長、白梅学園短期大学学長を歴任。登山家の槇有恒は実弟。
経歴
宮城県仙台市出身。父は新潟県士族・槇武。父の仙台赴任中に生まれた。
1965年叙勲二等授瑞宝章。1968年賜銀盃一個、叙従三位。
家族
- 父・槇武(1861年生) - 長岡藩士・槇小太郞の長男。慶應義塾を卒業後、奧羽日日新聞に入社、のちに主筆となる[2]。米穀取引所理事、三井銀行を経て、1907年に新竹製脳会社を興して取締役に就任、その後、岩城炭鉱、新竹拓殖軌道の社長のほか、有阪製袋、新竹電燈、台湾製脳、台湾製塩、花蓮港木材などの重役を務めた[2]。
- 父方叔父・槇哲 (1866-1939) - 槇小太郞の次男。慶應義塾理財科卒業後、慶応義塾監督、舎監を経て、1896年北越鉄道入社、王子製紙を経て、1906年日本統治下の台湾で塩水港製糖支配人となり、のち社長に就任[3][4]。台湾花蓮港木材、新日本砂糖工業、東北砂鉄でも社長を務めたほか、台湾倉庫、南昌洋行、台湾製脳、台湾電気興業、台湾生薬、南満州製糖の重役など、植民地経営に尽力した[3]。
- 岳父・小田切万寿之助[2]
- 弟・槇有恒 - 登山家
- 甥・槇文彦 - 建築家
著書
- 『防衛の務め - 防衛大学校における校長講話』甲陽書房、1965年、増補版1968年
- 『米・英・仏士官学校歴訪の旅 - 自由民主国家の士官養成』甲陽書房、1969年
- 『防衛の務め 自衛隊の精神的拠点』中央公論新社、2009年、新版2020年
共著
- 『渡欧だより 其2 渡欧だより(槙智雄) 渡米だより(槙哲)』岸田書店、1917年、槙英子編
- 『西洋史講座12 西洋政治制度史』ほか 雄山閣、1932年
参考文献
- 慶應義塾 『慶應義塾百年史』 別巻(大学編)、1962年。
- 池井優 『慶應義塾大学法学部政治学科百年小史 - 師友人物記』 慶應義塾大学出版会、1998年。
- 槇智雄先生追想集刊行委員会編 『槇乃実 - 槇智雄先生追想集』 防衛大学校同窓会槇記念出版委員会、1972年。
関連項目
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脚注
- ^ a b c d e f g h i 慶應義塾 『慶應義塾百年史』 別巻 大学編、530-531頁
- ^ a b c 槇武『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ a b 槇 哲(読み)マキ アキラコトバンク
- ^ 塩水港製糖の失敗と再生─大日本製糖の事例を念頭に久保文克、第47回経営史学会全国大会自由論題報告、2011年10月15日
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- 槇智雄1952.8.19-1965.1.16
- 大森寛1965.1.16-1970.7.1
- 猪木正道1970.7.16-1978.7.15
- 土田國保1978.9.29-1987.3.24
- 夏目晴雄1987.3.24-1993.9.30
- 松本三郎1993.10.1-2000.3.31
- 西原正2000.4.1-2006.3.31
- 五百籏頭眞2006.8.1-2012.3.31
- 國分良成2012.4.1-2021.3.31
- 久保文明2021.4.1-
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