柏戸秀剛
柏戸 秀剛(かしわど ひでたけ、1918年5月3日 - 1982年12月11日)は、岩手県九戸郡種市町(現・洋野町)出身で伊勢ノ海部屋(当初は 春日山部屋、後に錦島部屋)に所属した大相撲力士。本名は佐々木 秀剛(ささき ひでたけ)。最高位は東前頭筆頭(1947年6月場所)。現役時代の体格は身長186cm、体重96kg。得意手は右四つ、吊り、上手投げ[1]。 現役時代よりも、年寄として日本相撲協会の発展に尽力したことで業績を上げたことや、横綱・柏戸剛の師匠として名を知られる[1]。 来歴久慈農林学校(後の久慈農林高等学校、現・久慈東高等学校)相撲部で活躍し、卒業後に春日山部屋に入門、1936年5月場所に初土俵を踏む。初めて番付に就いた1937年5月場所には序ノ口で全勝優勝、その後もすべて勝ち越しで1940年1月場所に新十両、翌場所には師匠の名を継いで藤ノ川と名乗り、十両でもすべて勝ち越し、1941年5月場所に新入幕を果たした。1942年5月場所からは、部屋を再興した伊勢ノ海親方について伊勢ノ海部屋に移籍し、四股名も伊勢ノ海部屋ゆかりの柏戸(10代目)と改める[1]。 長身を生かした吊りや投げを得意としたが、終始体重が100kgを越すことがなく、軽量力士であったことが、三役昇進を阻み、最高位が前頭筆頭にとどまった。しかし、1943年1月場所には8日目に新横綱の安藝ノ海に初黒星をつけるなど、上位力士をしばしば苦しめた。美男力士として人気があった[1]。 伊勢ノ海親方の死去に伴い、1946年からは錦島部屋に所属し、時津風一門に合流することになった(ただ、部屋を合同したわけではないので、伊勢ノ海部屋の力士と時津風部屋の力士とは、系統別総当たり制の時代でも対戦した)。1949年1月場所限りで引退、年寄・伊勢ノ海を襲名して独立、伊勢ノ海部屋を再興した。親方としては、横綱・柏戸、関脇・藤ノ川を育て、伊勢ノ海部屋の位置を確固としたものとしたが、特筆されることは協会監事・理事として、ソ連公演、中国公演の実現に尽力したことで、〈角界のキッシンジャー〉と呼ばれることもあった。またテレビ中継初期の解説者を務めるなど、頭脳明晰な人物であった。定年を目前にして1982年12月11日肺がんで死去、64歳没。部屋は藤ノ川が継承し、同年12月28日には日本相撲協会葬が執り行われた[1]。墓所は横浜市久保山墓地。 主な成績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴
年寄変遷
脚注関連項目 |